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時代認識と政策について (及び思考することに関する備忘録)

政策は理念を具体化するための道具である

政策は何のためのものか。政策を通じて新しい制度を作れば、多くの場合、その制度を使ったり、それに作用される人がいる。企業は税金を減資とする形で何らかの補助を受けて、新しいビジネスや投資ができる。政府が示した方針や規制のもとで市場が一定の方向に動くことで、新たな市場が作られたり、人々の生活が変わったりする。教育制度を変えて小学校にタブレットを配布すれば、デジタル技術が国民にとって身近なものになるだろうし、新たな通商枠組みを構築すれば、相手国との取引が活性化するかもしれない。
だが、政策が変えることを意図しているのは、多くの場合、政策対象そのものではない。政策を通じて変化をもたらすべきものは、大きな言葉で言えば、国のあり方であり、政策が受益者として想定する個々人(言うなれば「国民」だが、その範囲については議論の余地がある。ここでは立ち入らない)が日常生活の中で感じられる豊かさや安心感、誇り、そしてそれらが脅かされる要因が出現したとしてもそれらが揺るがない環境のはずである。政策はそうした目的に近づくための手段でしかない。
政策は、こうしたものに貢献できているだろうか。もしもそうではないのだとすれば、政策に奉仕する人間として、それを看過してはいけないはずである。
もちろん、日々の業務の中で逐一こんなことを突き詰めて考えている人間はむしろ職務懈怠の謗りを免れないのだが、逆に少しも考えていないのでは、政策という、言わば、自分以外の他者に対して、その意思とは無関係に一方的な影響をもたらす力に携わる人間として、責任を放棄していると言わざるを得ない。
政策に携わる人間は少なくとも、自分の仕事がいかなる理念を具体化することを意図したものであるのか、それを問われた時に答えられるだけの自分なりの答えや仮説を持っておく必要があるはずである。

政策の目的と組織の形式は相反することがある

一般に、組織で働く人間は、その組織の仕組みを所与のものとして、与えられたポジションの中で最大の成果を発揮することに注力するものである。なぜなら、組織の仕組みは様々な歴史的文脈や手続を経た結果としてある一定の形式を取っているものであり、その形式が想定する一定の環境を前提としたときに、当該組織の仕組みは有効性を持っている可能性が高いことに加えて、仮にそうでないとしても、組織はその形式を前提として活動を行い、それによってその組織の外部は一定程度の影響を受けており、その影響や、あるいはその形式そのものによって利益を得ている層が一定数いるので、形式それ自体を変更しようとすれば、そのために必要な合意形成には多大な時間と労力を要することが多いからである。加えて、組織に属する構成員を、組織として何らかの尺度でもって評価しようとしたときに、その組織が持つ形式に則った行動をしているか否かがその尺度になることは当然のことであり、組織の構成員は、組織内での評価を得るためには形式に則った行動を取る誘因が働くからである(なお、本稿でいう「形式」とは一定の手続を経て明文上のルールとして定められているもののみならず、そうした手続を経ずに慣行的に形作られたものも含んでいる)。

だが、仮に日本という国が今置かれている国際環境と国内の経済社会の状況が、政策に関する意思決定を行う組織が持つ既存の形式を前提として、その政策資源を効率的に投入しても好転することが難しい状況にあるのだとすれば、所与の形式の中で政策を立案し、運用しているだけでは、冒頭述べた政策の本来の目的が果たされないという状況になりかねない。そうした状況の中では、組織が持つ形式を前提として政策を決定し実行していくことよりも、むしろ、組織の形式そのものを変えることが、政策が冒頭述べた手段として適切に機能するために必要になる。

政策は目的を果たしてきたか

バブルが弾けて以降、日本経済は停滞が続き、国際情勢も大きく変化している。国の危機が叫ばれて久しいが、今のところ、国や社会のあり方が大きく動揺した幕末や昭和初期に比肩するような変動や破綻は起きていない。そして、国民生活が揺るがされるようなそうした大きな変動は、もしかすすると、今後も起きないかもしれない。
だが、足下の経済状況の悪化は、既に多くの人の日常生活において看取される水準に達し、これが向上する兆しは一向に見えない。このまま少しずつ、人々の生活水準は低下していき、日常生活において豊かさを感じられる場面は減っていくだろう。GDPはほとんど成長せず、格差が広がり、賃金が上がっていないのだから、当然である。
今後、資産を持った人間や、労働市場において高く評価される能力を持った人間とそうではない人間の間に、無視することの難しい差が生じ、今よりも明瞭な形で格差を実感せざるを得ない社会へと日本が向かっていく可能性は高い。
そして、国民の豊かさの前提となる国の安全保障環境の変化もまた著しいものとなっている。米国主導で構築されてきた戦後自由世界の国際秩序は、戦後かつてない程に大きく動揺している。

繰り返しになるが、こうした状況は何も今に始まったことではない。日本社会が今のままでは立ち行かないと言われて長い時間が経っている。平成に入ってから生まれた世代にとっては、物心ついた時から日本はずっと不景気である。それでも今のところ、こうした状況が大きく好転する兆しはないのである。
一体何が間違っていたのだろうかということにはここで立ち入らない。30年間にわたって状況が好転しなかったということが、今ここで念頭に置きたい事実である。この間、学者や官僚、政治家といった国の指導層が、議論を積み重ね、数多の制度変更を行なってきたにも関わらずである。政権交代も、情報通信技術の革新も、歴史上稀に見る強力な長期政権も、こうした状況を変えることは無かった。

政策関係者と国民は「時代認識」を持たなければいけない

組織の形式を所与として、その組織が持つ能力を最も効率的に発揮することを目指すことと、組織の形式そのものを変えようとすることの二つの立場があるとしたときに、どちらに立つべきかという問題は、当人の時代認識に関わる問題である。
仮に後者の立場を取るとしても、少しでも状況を良くするように、組織の形式を前提として今すぐにできることをすべきであるということは明白である。後者の立場を取る人間とは、組織の形式を所与としたときにできることの範囲では、もはや状況を改善することが難しい状況になっている可能性があるということを常に念頭に置き、状況に改善をもたらす可能性のある形で、組織の形式を変更することができると思われる場面に立ち会ったときには、そのために行動する人間のことである(そうした場面は大きかれ小さかれ、日常生活の中にありふれているということは、ここで強調しておきたい。なぜなら既に述べた通り、形式とは慣行によって形作られたものも含んでいるのであり、慣行とは個々人の行動の集合体に過ぎないからである)。

もっとも、これは政策に携わる人間に限った話ではない。それがいかに機能しているかは別にして、日本は民主的な意思決定の仕組みを備えた国だからである。民主制度とは本来、主権者である国民自身がこうしたことを考え、判断して行動することが想定されている仕組みである(言うまでもなく、その行動の態様は投票行動に限られるものではない)。

そして少なくとも私は、上記に述べた私の時代認識の通り、これまでに一人の生活者としてこの国で生きた経験や、僅かながら政策に携わってきた経験を通じて、日本の公共政策が、日本という国が置かれた環境の中で、求められるだけの成果を上げてきたかと問われた時に、何らの留保もなしに肯首することはできない。
もちろん、個々の政策を取り上げてみれば、今ある環境の中で最善の打ち手であると考えられる政策は多くあるだろう。だが、危機にあると言われながらも、この国が置かれた状況が好転していないことに関しては、個々の政策の内容に関する問題ではもはやなく、その裏側にある政策立案の過程や、意思決定のプロセス、すなわち、日本という国の組織が持つ形式において、何かが大きく間違っているとしか思えないのである。

こうしたことを踏まえると、少なくとも政策に直接的に携わっている人間が、そして理想的には主権者である国民が最初に考えなければならないことは、自らがいかなる時代認識に立つかということである。時代認識に基づいて形作られる理念に奉仕するもので無ければ、政策に意味は無いからである。

(備忘録)個人的な心境の吐露

形式を所与のものとして行動することは、形式そのものを変えたり、変えるために何ができるかを考えるよりも余程簡単である。なぜなら、形式に従って生きていれば、目先の自分自身の行動に悩む必要は無く、組織からも評価されるからである。
正直言って私自身も、自分がなぜこんなことを考えているのかわからなくなることがしばしばある。なぜ考え続けるのかという問に対する暫定的な回答は、政策に携わる仕事をしている人間であるという以前に、一人の国民として、それを考えることが自分自身に求められていると思うからである。だが、この回答は残念ながら、私にとってのカタルシスにはなり得ない。そうした言葉では処理しきれない何かが、心の中にわだかまっているのである。
更に言えば、こうしたことを考え、自分が何かの行動を起こすことで、何かが変わるという確信を抱いているわけでも勿論ない。一生こうした疑問を抱き、例え行動し続けても、何も変えられずに死んでいく可能性もあるし、その可能性のほうが大きいだろう。もっと言えば、仮に何かを変えられたとしても、自分自身はそれによって何も満たされないかもしれない。
だが、こうしたことを考えなくなったときに生ずる思考の空白を、何によって埋めるべきなのかが私にはわからないのである。
物事に意味は無いとわかったような顔で言う人もいる。目先のことが楽しければいいのだという考え方ができればどれほど楽かと思う。だが私に言わせれば、もし仮にそうなのだとしても、その瞬間、「なぜこんなことを考え続けなければいけないのか」という難解な問が、「どうすればそういう生き方ができるのか」という、同じくらい難解な問に差し変わるだけである。

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