親はスーパーマンじゃなくていい。
小学生になると、こども達が毎日のように日中の様子を報告してくれる。
「こんなこと言われた」
「こんなことされて嫌だった」
「こんなことがあって悲しかった」
正直、大人目線だと大したことないものばかり。
(「原因はあなたにあるよ」と言いたくなるものも。)
でも、人生経験浅いこどもにはその理由がわからない。
放っておくと「自分が悪い子だからだ」と勝手に結論づけてしまう。
その消化不良を放っておくと、自分の言動を振り返る習慣がなくなり、「自分が悪い子だからだ!」か他責にする癖がついてしまう。
だから私は、理由がわかっていても教えない。
耳を傾け、「お母さんもそんなことあったなぁ」と自分の経験をヒントとしてシェアしながら共感。そして、「なんでそんなことが起こったんだろうね〜」と一言。
こどもも大人も、自分の経験からだと感情的になってしまい、切り離して分析するのが難しい。
でも、本や他人の経験からだと、客観視し「なぜ?」を分析できる。
親は答えを教えるのが仕事じゃなくて、そういう振り返り自分で考える機会を与えてやるのが仕事じゃないか。と思う。
そのために親に必要なのが、自分の人生の棚卸し。特に、昔嫌だったり辛かった思い出に関しては、その時の感情の”揺れ”を書き留める。
当時は苦しくて、自分で消化できなくても、「今こどもへ伝えるためにあったことなんだな」って、意味付けもできるから、自分も救われる気持ちになる。
「育児は自分を抱きしめてやること」と、以前このnoteで書いたけど、まさに育児を通して私は自分の生い立ちと向き合って、意味のある時間だった、と自分を抱きしめている。
あなたは幼い時、親がスーパーマンのように感じられなかっただろうか。
こどもって、親が何でもできて、何でも知ってるスーパーマンだと思ってる。だから、どこか主従関係みたいなものが成り立ってしまう。こどもが何かしてしまった時、責められるのはこどもである自分で、どこか「親にはわかってもらえない」と思ってしまう。
でも、親だってかさぶただらけの人間で、脆くて、こどもが思うほど強くない。それをもっとこどもに見せていいんじゃないか、と私は思う。
勿論、そういう弱さを理由に親が働かない、こどもを虐待し正当化するのは人として絶対にダメだし、超フラットな友達みたいな関係もどうかと思う。
でも、こどもの気持ちに寄り添うためにシェアする自分の苦い経験は、こどもにとって、羅針盤みたいな役割になるし、そんなかっこ悪さは、こどもにとってカッコよくもあるんじゃないか。
親はスーパーマンじゃなくていい。ある程度の威厳は必要なのかもしれないが、それは親の言うことを聞かせるために必要なものでしかない、と私は思う。少なからず、私が親に対して感じていた威厳は恐怖でしかなかったから。だから、私は凸凹なかっこ悪いお母さんでいい。こどもの心に寄り添え、こどもがそこから学べるのであれば。
そんなことを思いながら、今朝もこどもの話をひたすら聞く母の私。
おはようございます。
いただいたサポートは、私の地元(宮城県仙台市)の児童養護施設へ寄付させていただきます。