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踵骨骨折奮闘記④

「違和感」(約3700字)

 病院に到着して約2時間後の13時過ぎ、ついに入院生活が始まりました。

 病室は4人部屋です。カーテンで仕切られた部屋はだいたい3.5畳くらいの正方形といったところでしょうか。ベッドがあり頭の上にはナースコールと酸素などの管をつなげるためのジャックが並んでいます。右手には縦長のラックがあり、貴重品を入れる引き出しとスライド式のちょっとしたテーブル。ラックの中央にはテレビが置いてあり、下には小さめの冷蔵庫がありました。

『同部屋に入院している患者さんってどんな人たちやろう?』
『当たり前のように4人部屋やったな。説明受けてなかったけどな。個室とかあんのかな?』

 と気になりましたが、カーテンで仕切られているので、そこにいるのかどうかも定かではありません。そんなことを考えながら、右腕につけられたネームタグを見つめつつベッドに横たわりました。そして、まず思ったことが、後悔でした。

『アホなことしたなぁ』
『あの時、道を逸れなければ…』
『迷い込まなければ』
『引き返せば…』

 という言葉と映像がフラッシュバックして何度も何度も脳内で再生されます。やってしまったものを今更後悔しても元には戻らないと頭では理解しているものの、こころが追いつきません。
次は怪我のことが気になります。

『この骨折は治るんやろか?』
『手術は明後日って言ってはったけど、それまでは何したらええんやろ?』
『先生は歩けるようになるって言ってはったっけ?』

 と頭が不安に支配されます。外来で検査を受けて診断されて手術の術式の説明を受けているにもかかわらず、肝心なことを覚えていないことにも気が付きます。そしてまた、最初の“後悔のpart”が脳内で再生されます。
 何度か看護師さんや助手さんが訪ねてきたと思うのですが、ほとんど気が付かないくらい自分のことしか考えられていませんでした。後悔と不安をたくさん繰り返したら、ふと、当たり前のことが浮かんできました。

『こんなこと考えててもしゃーない』
『まあ、不安は尽きへんのやから考えたってしゃーない』
『怪我した事実は取り消されへんわけで、今やれることを考えてやらな』
『不自由な生活になることもあえて楽しい体験になるようにしてみよか』

 しかし、そう前向きな考えが浮かんだのはほんのわずかな時間でした。ほんと、患者になって入院した時の気持ちはジェットコースターです。比喩ではなくて、感情の上がり下がりが激しいことに驚きました。
 ただ、後悔や不安といった気持ちが下がる思考のほうがはるかに大きく占めているので、どんどん気持ちが下がり滅入ってしまうんだと思います。まあ、当然の反応なのでしょう。これがひどい状態になると、うつ症状を呈したり、パワレスな状態に陥って抜け出せなくなるんでしょうか。
 さて、こんなときでもおなかは減ります。私の脳は後悔と不安といろんな思いで支配されていますから、この場合はきっと“第2の脳”と言われている腸からの指令でしょう。「しっかり食べないと治るものも治らない」と言わんばかりに「ぐー」とおなかが鳴ります。
 先ほど助手さんが運んでくれたであろう遅い昼食を食べました。ご飯とカレーと野菜とちくわの煮びたしとヨーグルト。カレーは甘口でとろみが強くひっくり返してもこぼれないのではないかと思うほどでした。最初のご飯なので、よく覚えています。

『選択制やないんか‥』

 などちょっと贅沢なことを考えながら、それでも温かい給食にほっとするのでした。“腸の欲求”を満たすと悪い考えは浮かんでこないのかと思っていたのですが、そんなに甘くありません。“すること”がなくなったとたんにあの脳内再生の繰り返しが始まります。すると、助手さんがお膳を下げに来てくれて、現実に引き戻されました。

「もうご飯食べたぁ?」シャー(カーテンを開閉する音、以下同じ)。
<…あ、>
「下げときますねぇ」
<あ、ありがとうございます>
「この台も直しとくね」

 と言ってベッド柵から台を外して足元に設置して、シャーっと去っていきます。少し“もやり”ながら例の脳内再生を繰り返していると、食後の痛み止めを看護師さんが持ってきてくれました。

「開けますねー」シャー。
<…えっと>
「ご飯は? あ、全部食べたんやね。はいこれ、お薬」
<あ、ありがとうございます>
「なんかあったら、いつでも言ってくださいね」シャー。

『…何やろ?この違和感は…』

 またしても“もやり”ましたが、今度はいつになったらアナムネ?ということに関心が向きました。しかし、いつまでたってもアナムネは始まりませんし、主治医と看護師の名前が書いてあるプレートの担当看護師も現れません。

『看護師さんの顔と名前が一致せーへんな』
『やっぱ病棟の看護師さんも(私(の生活)に)関心ないんやろな』
『それがこの病院の方針なんやろか?』

 とぼんやり考えていると、事務員さんにいただいた書類のことを思い出しました。入院のしおりを取り出して読んでみましたが一般的なことしか書いていません。当然です。それよりも、入院の同意書や手術の説明と同意書などが目に留まり、“すること”を見つけた喜びに浸りました。こうなると、書類にある文言のあれもこれもが気になってきます。

『全身麻酔の手術って怖いな』
『病衣とかは借りたけど、着替え持って来てもらったほうがええな』
『仕事のキャンセルの連絡せな』
『電話ってどこでしたらええんやろか?』
『パソコンって病棟に持ち込みできんのかな?』

 あれこれ考えつつ、書類を読んでサインしていると、「関心を持たれていない」「なんでやねん」ということが再び脳裏を駆け巡ります。しかし、おなかが満たされていたからか、今回は違う考えも浮かびました。

『先生や看護師さんや相談員さんから入れ替わり立ち代わり何度も同じことを聞かれたら面倒くさって思ったやろな』
『入院するまでにもっと時間がかかったやろな』
『さっき話したやん、共有しろやって怒ったかもしれへんな』

 こう考えると、「関心を伝えて」「生活歴を詳しく聞く」ということは一概に良しとは言えないなと思いました。『やっぱ、時と場合によるんやろな。注意せなあかん』などと分かった風になっていると別の看護師さんがやってきました。

「上田さーん」シャー
 <…。はーい>
「奥さんが、どうしても一目会いたいって、来てはるねん。ほんとは面会は週に1回だけやねんけどね」
 <あ、そうなんですか?すみません。>
「車椅子持ってくるんで、ちょっと待ってて」
 <お願いします>

『なんで謝ってるんだろう…』

 そんなことを思いながら待って、持ってきてもらった車椅子に何とか自力で乗り移り、看護師さんに車椅子を押されて詰所の横で待つ妻の元に行きました。不安げにベンチに座っていた妻の顔がほころびます。私は、謝るわけでもなく何とも言えないあいさつを交わして、事の経緯を妻に手短に説明し、病室で使用したいものを片っ端から挙げて、持参してほしいことを託しました。

 少し話がそれますが、私の精神科ソーシャルワーカー時代によく体験した1人暮らしをしていた患者さんが入院する時のことを考えてみます。

 彼らの入院が非自発的な入院で拘束の度合いが高ければ高いほど、日用品を取りに自宅へいったん戻ることなんてできません。ましてや、彼は入院するつもりなどないわけですから、その発想すらありません。
 「医療と保護のために必要」だと精神保健指定の判断で医療保護入院が決まります。身近な家族(保護者)もいないので、当たり前のように市長同意の手続きが取られます。看護師が迎えに来て保護室という名の個室に連れて行かれ、病衣を着せられ、おむつをはかされ、拘束帯で四肢と体幹を拘束されます。自分の着替えがあれば病衣なんて着る必要はないのに、これまた当たり前のように費用請求されます。なんと矛盾に満ちた世界なのでしょうか。
 そして保護室の傍らには、この必要な入院の「片棒を担いでいる自分」が立っています。彼の地域生活を懸命に支えていたはずなのに、またしても「病状の悪化」に負けたと無力感を感じながら…、いや、言い訳をしながら。私は、勇気をふりしぼり睨みつけてくる彼のもとに歩み寄って「何か持って来てほしいものはありますか」と問いかけるのですが、贖罪でしかありません。「○○、△△…を持って来てほしい」と、彼は仕方なく私に託すのです。
 その彼らと今の自分がオーバーラップします。
 私は強制的に入院させられたわけじゃないので厳密には彼らと状況が違うのですが、おこがましくも彼らの気持ちを慮ってみようとしている自分がいました。彼らには身近な頼れる家族がいない場合がほとんどでした。家族がいたとしても遠方に居住しているため「病院にお任せします」となります。パートナーもいません。託せる人が、いないのです。私でさえ希望が持てないなと思わされているというのに、彼らの絶望感たるや、想像することなどできません。

 私には託せる妻がいました。全幅の信頼を寄せられる人がいました。『これって当たり前のようなことやけど、幸せなことやんなぁ』とかみしめ、エレベーターの妻を見送りました。

(「違和感の正体」へつづく)

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