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”哀”に囚われる自分、を俯瞰する自分

私は失敗を引きずるほうだし、大抵の場合は必要以上に落ち込んでしまう。そんな性格だと思う。

自分のミスで迷惑をかけてしまうと、まず申し訳ないと思うし、強く後悔する。こんな失敗をしてしまった自分はなんて情けない存在なのだろうと悲しくなる。一時的にではあるが、衝動的に自分の存在を消してしまいたいという思いが出てくることもある。

自分自身に対して怒りの感情を向けることもあるが、一番強いのは悲しみの感情だ。自分に対してではなかったとしても、何かマイナスの出来事があると怒りよりもとにかく悲しみが押し寄せてくる。喜怒哀楽の中で「哀」の感情に最も支配されやすい。そういう性質なのだろう。

だから私は失敗が怖い。失敗したくない。常に正しく、間違いのない行動をしたい。
常に成功し続けられる人間なんていないはずだが、それでもそう思ってしまうのが自分なのだ。

失敗してもそれは学びになるし、失敗してこそ人は成長する。失敗は成功のもと、という言葉があるように、失敗はむしろ人生に必要なものだろう。
とは頭では理解しているものの、失敗の先の成長や学びより、失敗したときに自分が受ける精神的ダメージのことを思うとやはり駄目なのだ。
痛みなくして得るものなし、とはいえ、痛いものは痛いのだ。だから、その痛みに対する恐怖をなくすことだって決して簡単ではない。

精神的な痛みは、肉体にも表れる。
例えば、何か失敗してしまった時、強いショックを受けた時などは、しばらくは息苦しさが続いて胃の奥がズンと重くなる感覚がある。自分の意思とは関係なく、勝手に涙が溢れて止まらなくなることもある。
悲しみや後悔の念は冷静さを失わせるし、痛みや苦しみに囚われている間は、どうしたって視野が狭くなるものだ。そのとき、その瞬間は、ただ自分の苦しさ悲しさ辛さの感情と感覚が自分の全てだと感じて、どうにもできなくなってしまう。息継ぎすることもできずに”哀”の波に揉まれて、溺れて息が途絶えそうになる。
そんな状態の自分というのは、ひどく不安定で、脆くて、自己中心的だと思う。

私は失敗を引きずるし落ち込みやすい性格だが、そんな自分を俯瞰する視点を持てることも多い。

失敗して落ち込んだ時、ショックを受けた時、その瞬間の自分は何も見えなくなってしまう。
何も見えなくて、感情の渦に呑まれて流されそうになるが、そこで「ああ、今の自分はこういう状況で、こういう感情を抱いていて、こういう理由があってこんな思考になっているのだな」と、自分の内面を外側から観察するのだ。そうすれば、少しは冷静になれる。

失敗の原因を考えて反省する、というよりも、まずは自分がどのようにダメージを受けているのかを分析し、ぐちゃぐちゃに絡まった感情の糸を解こうとしてみる。
そもそもショック状態では、自分が悲しいのか苦しいのか辛いのかすらもわからなくなる。だから、まずは自分の内面の状態を客観的に見つめてみる。

痛い痛いと泣き喚くだけでずっと目を閉じていたら、どこを怪我しているのかさえわからない。だから、怪我をした自分を外から見つめて、怪我をした場所を見つけて、傷をふさぐ。
自分を俯瞰するということは、そういう処置が、多少は自分でできるということだと思う。

私は完璧主義で理想が高く、そのくせ些細なことでひどくショックを受けるような、面倒で不安定な人間だ。
しかし、だからこそ、そんな自分自身を自覚し、俯瞰的に見つめる視点を持つこともできているのかもしれない。

脳内で瞬間的に自己を客観視できることも多いが、一番良いのは文章化することだ。目に見える形で己の状況を記録して理解できれば、より整理されて冷静になれる。だから私は、文章を書いているのかもしれない。

目の前が真っ暗になってパニックになる自分と、そんな自分を見つめる客観的な自分の視点を行ったり来たり。その繰り返しで、少しずつ傾いていた心の均衡を取り戻そうとすることが多い。

きっと私はこれからも、そうやって自分で自分を助けて生きていくのだろう。