おれの呪い

朝井リョウの『何者』を読んでいる。霧雨が世界をぼやけさせる、金曜日の夕方。

自分にかけられた呪いと向き合ってみる。

ただ、言葉は選ばないといけない。


おれがおれと真剣に向き合った時にしか出てこない、自分自身の言葉でないと、嘘をついている気がしてならない。

この文章はただ、自分のために言葉を紡いでいく類のものだ。おれがnoteを書いたり、ツイートしたりする時に感じる違和感がある。

これを読む人に、おれは自分をこう見て欲しいという下心でこの文章を書いている、という違和感だ。虚栄心がおれに書かせているんじゃないかと思う。この文章だって「こう見られたい」と思って書いてるのかもしれない。その「理想像」は「純度100%のおれ」の本当の姿を、どれほど表現できているんだろうか?

虚栄心はどこまでいっても消えない。なら、虚栄心を自覚しながら、虚栄心に突き動かされてフリック入力を続けよう。

人と違っていなければお前がお前である価値はない

これがおれの呪いのひとつだ。
「自分にかけられた呪いの知り方」は以下参照。

小学生の頃、母親も父親も忙しくて、友達と遊ばない日はよく祖父の畑仕事を手伝っていた。その時、祖父によく言われた言葉がある。

「人と違った道を選ぶのが大事だ」

人生において何かを選択する時に、この言葉の通りに動いていた気がする。その通りに選択するのは気持ちが良かった。「人と違う」という状態にあると、何か優越感に浸れるしね。「おれは人とは違うんだ」「特別なんだ」といったような、幼稚な優越感に。

それに、「人と違った道を選んでいれば」おれが語るに足る何かを得れるわけでもないらしい。それは「自分で何かを選んでいる」ようで、「みんながAならぼくはB」というように「周りに合わせて残りの選択肢を選んでいる」にすぎない側面もある。

大学を辞めて、「何者でもない自分」になった時、思い知らされた。「人と違う道」を選ぶためには「人」がいなきゃダメだったってことを。そこにいるのは、「自由意志を持ったおれ」でも「唯一無二のおれ自身」でも「天上天下唯我独尊のおれ」でもない。ただ「人がいなきゃ人と違う道を選べない、何者でもないおれ」がいるだけだった。

おれはどんな形をしているんだ?

そんな「きっと何者にもなれないおれ」はどんな形をしているんだろう?
何が不快なんだ?
何に快楽を感じる?
どんな奴が好きだ?
どんなやつが嫌いだ?
どうすれば社会をやっていける?

雨の日に出かけて、靴下がぐちゃぐちゃに濡れるのはすげーきもちわるい。

晴れた日にぶらぶら散歩するのは最高に気持ちいいと最近気づいた。

小学校で働いてみたが、どうでもいいやつと時間を共にしなければならない苦痛は耐えがたい。

子どもが大人に怒鳴られて恐怖で支配されてるのも耐えられない。

くそつまんねー研究をやんなきゃいけなくて、無機質な研究室に半日以上いなきゃいけない日々は、おれの精神を殺すには充分だった。日に100回は「何のために生きているんだ?」と、とても忙しいのにとても退屈な環境を呪った。

大学を辞めて、人と違う道を選ぶことが出来たのに、「なんでおれは他の人たちと同じように出来ないんだ、普通をやれないんだ」と自分を責めた。

おれはきっと、「人と違くあること」「少数派であること」ばかりを選んできたから、本当は自分はどんな形をしているのかを、理解しようとしてこなかったんだ。その努力から逃げてきた。

だって、考える必要がないんだから。「隣の人と同じであること」と同じぐらい「隣の人と違くあること」はラクなのかもしれない。

終わり

自己嫌悪モードに入っちゃったので、ここらで終わっとこう。そんな白黒気まずにさ。あいまいにやってこーぜ。

またねー

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