心臓ひとつの隔たり
遠い昔、と言っても遡って数えてみると6、7年くらい前、友人にこう言った。
「人と人は、心臓ひとつ隔たりがある」
なーに言ってんだ、ませたガキが。と今でもツッコミたくなるような謎発言。
表現に多少の違いがあれど、たぶんそんな意味のことを言った。
要は、人と人は、真の意味で分かり合えないということを言いたかった。
それを理解した上で、おまえと友人でありたいんだということを言いたかった。
分かるか、て。笑笑
なぜ心臓なんだ、と言うと、
まあ頭でもいいが、心臓の方がロマンチックだから、心臓にしておこう。
同じ文字を読んでも、同じ林檎を齧っても、同じ雲を見上げても、その感覚、味、心臓の動きは同じではない。同じように鼓動していても、押し出される血液の量は違う。同じように喜んでも、感動しても、悲しんでも、あなたの心臓はあなたの心臓、私の心臓は私の心臓でそれぞれ勝手に動いている。
この世界のことを、私たちは勝手に、個々に理解している。
良いよね、美味しいね、きれいだねと、共感し合うことは生きる上で大切なことだと、もちろん理解している。人は互いに歩み寄って、暖を取り合って生きていく。
比較的共感しやすいし、共感することにより感情を得ている方ではあるが、共感をすればするほど、「違う」ということをひとりでに痛感する。
いいか、「似ている」も結局は「違う」んだ。
そして、「わかったつもり」でいるのも、人間関係を築く上では禁忌であり、愚行である。
それは「言葉」と「翻訳」に似ている。
君はAのことを知るために、Aが語る言葉を聞く。その言葉をBとする。君はa語の文章を理解するために、自分が理解できるb語に翻訳された文章を読む。しかし当然ながら、BはAではないし、b語に翻訳された文章はあくまでもa語を翻訳したものでしかない。
それは「男」と「女」に似ている。
例えば、「好きです」と男が言う。「好きです」と女が言う。
さて、この場合、世間一般的には「両想い」とされるだろうが、この2人の「好きです」は 「同じ」だろうか。2人は「両思い」なのだろうか。大抵の「2人」は、付き合っていく中で「違い」に気づき、それを各々すり合わせながら、譲歩し合いながら付き合って行くか、または「違い」に耐え切れず、すれ違っていって、さよならしてしまうか。
友人とも、もう4年以上も話していない。いわばさよならしてしまったパターンだ。
もう話さなくても、会わなくても、私の友人であることに変わりはない。昔もこれから先も、友人は私の友人だ。「友人」と呼ぶのは、そういう意味である。
私たちが話さなくなった原因は、結局分かり合えなかったからだと思う。分かり合えないことを分かってもらえなかったからだと思う。
友人よ、覚えているか。
「人と人は、心臓ひとつ隔たりがある」
分かってもらえないだろうか。分かってもらえないよな。分からなくてもいいんだ。
分かり合えないから。
...
人と人がどうしようもなく分かり合えないことをひどく悲しく、哀れだと思う。
心臓ひとつ分の距離が、私たちを隔てる。
近いようで遠い。もしかすると、見方によっては世界一遠い距離かもしれない。または世界一近い距離かもしれない。「見方」とはそういうことである。
心臓ひとつ隔たりがあるから、私は心臓をあなたの心臓に近づける。
近づけて、互いの鼓動に耳をすませる。
あなたは今、月を見上げているだろうか。
今夜の月はどんな風に見えますか?
あなたは今、風に吹かれているだろうか。
木々と葉が擦れ合うのが聴こえますか?
あなたは今、泣いているだろうか。
泣かないでくれ。抱きしめることも、涙を拭ってあげることもできないんだ。
泣いてもいいよ。いくら泣いたってそれを咎める権利は誰にもないんだから。
あなたの心臓は今、どんな風に鳴り響いているのだろうか。
私の心臓の音は聴こえますか?
2023.11.7 星期二
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