日本語教師の国家資格について(2)〜資格の位置付けと範囲
この記事は,日本語教師の国家資格に関する「日本語教育小委員会」の議論をもとに書いています。「日本語教育小委員会」は政策や法律を作るところではなく,政府に対する意見をとりまとめる専門家による会議体です。そういった前提は「日本語教師の国家資格について(1)」に書いてありますので,まず(1)を読んでからこちらに飛んできてください。そうでないと,いろいろと誤読してしまうと思いますので,よろしくお願いします。
資格制度の概要
日本語教師の資格には,「公認日本語教師」という仮の名称が付けられています。この資格については,名称独占の国家資格がいいのではないかということで意見をまとめました。国家資格には,大別すると「業務独占資格」「名称独占資格」「設置義務資格」「技能検定」などがあるようです。
「業務独占資格」とは,その資格を持っている人でないと,その業務を行ってはならないとされている資格です。医師や弁護士など,世間的には「難しい」「専門性が高い」と認識されている資格が該当することが多いようです。
「名称独占資格」とは,その資格を持っている人でないと,その名称を使用してはいけないとされている資格です。たとえば介護の仕事は資格がなくてもできますが,「介護福祉士」を名乗るのは,資格取得者だけです。
公認日本語教師が名称独占資格として国家資格になった場合,以下のようになります。
資格を持っていない人が日本語を教える ○
資格を持っていない人が「私は日本語教師です」という ○
資格を持っていない人が「私は公認日本語教師です」という ×
ところが,しばしばこの前提が忘れられているように感じます。日本語を教える仕事は,資格があってもなくてもできるというのが,小委員会の意見です。
資格の有効範囲
では,資格を持っていない人は,本当に今までどおりに日本語を教えることができるのでしょうか。それは,この新たな資格制度とは異なるルールによると思います。「異なるルール」については,小委員会では一切議論していませんので,以下は小委員会の議論ではなく私見として読んでください。
「異なるルール」には以下のような2つの可能性が考えられると思っています。
1)法的には,法務省の「日本語教育機関の告示基準」に,公認日本語教師に関する規定が盛り込まれるかどうかです。現在の告示基準の教師要件を満たしている人は,「公認日本語教師」への移行が妥当だとされていますので,いずれは,告示基準の教師要件=公認日本語教師となる可能性は低くないでしょう。その他にも,教師定数のうち一定数を公認日本語教師で満たす必要があるとか,主任になるには公認でなければならないとかのルールが作られることも考えられます。ただ,実際にどうなるかはわかりませんので,それは告示基準の所轄官庁である法務省の動きを見守るしかありません。
2)独自ルールとしては,地方公共団体,国内外の企業や教育機関,その他組織・団体などが,それぞれ独自の採用基準として公認日本語教師であることを求めるかどうかです。普通に考えると,採用には一定の基準が必要ですので,公認日本語教師を応募要件とするところが出てくるでしょう。
日本語教師は日本語話者であれば誰でもできると思われていることが多いのは事実です。そのような社会状況下では,有資格者であることが,雇用を決断させたり,専門性に見合った待遇を引き出したりする根拠となるかもしれません。逆に,資格制度が実現されても,資格の有無が能力の差につながらなければ,資格制度が雇用環境の改善につながることは期待できないでしょう。
資格と「能力」
みなさんは,間黒男(はざまくろお)という男性をご存知ですか?医師免許を持っていないにもかかわらず,めちゃめちゃ高度な技術を持った医師「ブラック・ジャック」です(冒頭からここまで引っ張ってすみません 笑)。ちょっと極端な例にはなりますが,ブラック・ジャックみたいな人がいるから,医師免許制度は必要ないとなるかどうか,考えてみる必要がありそうです。
世の中には,運転免許を持ってないけど運転がうまい人,ふぐ調理師免許を持ってないのに自分で釣ったふぐを調理して食べてピンピンしている人など,資格の有無と「能力」が必ずしも一致しないことがあります。とはいえ,それはある種の特殊事例ではないかと思います。漫画ではなくリアルな場面で,「医師免許はないけど,今まで何年も手術をしてきて技術は確かですから信じてください」という人に,じゃあお願いしますと開頭手術をお願いする人が多数にのぼるのかどうか…。ここには「信頼」という要素が関係してきます。
資格制度というのはまさに制度ですので,制度全体の信頼を高めるためには,ブラック・ジャックのような特殊な例を前提とはできません。ですから,資格の制度を議論するにあたって「資格がなくても能力が高い人がいる」という事実は,いったん考慮の周辺部分(中心ではないという意味ですが,まったく考えないわけでもないという意味で周辺)において考える必要があるでしょう。
現在,日本語教師は資格制度を作ろうとしているところですので,当然のことながら,資格を持っている人と持っていない人の間に,何らかの差ができるように,この資格制度を信頼される制度として構築し運用していかなければならないと思います。資格の有無が「能力」に関係しないとすれば,どうすれば差が出るかという有資格者の育成の問題として考える必要があると思います。しかしながら,もし,それでも資格の有無が有資格者全体の「能力」に関係しないとなれば,それは「日本語教師」という仕事が,「誰にでもできる」ものであることの証左となるのではないかと思います。
私の関連記事です
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