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あの急な階段を昇った先に。『曉 AKATSUKI CURRY』平尾暁さん、理栄子さん【北海道の生活史 #01】(廣岡俊光)

北海道にかかわる
さまざまな人たちの
パーソナルな語り。

なにかを代表するわけでも
なにかの縮図でもない
その人自身の語りを
少しずつ残していきたい。

そんなおもいで始めます。

『北海道の生活史』

■ 20代の頃、仕事で上手くいったことがないので、とりあえずなにか続くものにはしたいなと

平尾暁さん(以下、暁さん):大学を出て特にやりたい仕事もなかったので会社員をやっていて。でもあまり仕事が身に付かなくって。バンドもやっていたので、そっちのほうが盛り上がって。でも28歳、29歳くらいからフリーターみたいになって、履歴書を送っても面接まで行かない感じになってきたんですよね。これはいけないということで、音楽関係のつながりで、『ピカンティ』(札幌の人気スープカレー店)のオーナーの須藤修さんの歌の録音を手伝っていたので「働かせてくれませんか」とお願いして。

 その頃、よく食べに行ってたのが『(村上カレー店)プルプル』『サヴォイ』『ピカンティ』。好きなカレー屋で働きたかったのと、求人があったのがピカンティで。

 若かったのでいろいろと問題も起こしましたね。建物のオーナーが店の駐車場の前に車を停めているのを「勘弁して下さいよ」って注意したら、激昂して「出てけ!」みたいな話になって。その責任を取って、1年くらいでやめることになったんですよね。

 それから一回バイトして、今はなくなったスガイビルの横にあった『スパイスボックス』に1年。そのあと『プルプル』に空きが出て入れてもらいました。33歳の時。それから10年くらい。

―― 当時のスープカレーの盛り上がり方はすごかったですね?

暁さん:あの頃がピークだったんじゃないですか。『らっきょ』『心』あたりが出そろって。プルプルも開店前から並んでるからドア開けたらそれで満席になって、一日中ランチタイムみたいな。本当にすごかったですよ。

▲1995年創業の老舗店。いまや定番の納豆を使ったスープカレーはここが発祥 ※諸説あり

 1店舗じゃもうさばききれないから2店舗目『デストロイヤー』を始めて、その2店舗で回りだして。ぼくが入った年までは売上が上がり続けてピークだった。でも、そこでなんか突然スープカレーのバブルがはじけたようになって。当時やってた店もけっこうやめていったんですよね。プルプルも2~3年の間に、これ以上数字が落ちたらどっちか一店舗閉めるからっていう状態にまでなってたんですよ。

 だいぶ無駄もありました。外から見てると繁盛店だったと思うんですけど、けっこう厳しかったですね。プルプルは観光客も多かった。デストロイヤーは地元の人。医大生とかけっこう多かったですね。デストロイヤーにはお客さんは来てたんだけど人件費で赤字が続いてて。客の数はちょっと落ちたけど働く人を削って人件費が減ってバランスが取れたみたいな感じでした。

―― 札幌のスープカレー界のレジェンドのひとり、村上義明さんと10年働いた経験は貴重ですね。

曉さん:たくさんの数をさばく店だったので、オーダーを任されることもあったし、スタッフみんなやるんですけど週末のメニューを考えたり、ちょっと店がやばくなってきたところをどうするかっていうのを考える場も与えられたので。村上さんは仕事は秘密なく教えるし任せるタイプだったので、ためになりました。

―― プルプルで働いているときは、独立して店を持ちたいという気持ちはなかったんですか?

暁さん:20代の頃、仕事で上手く行ったことがないので、とりあえずなにか続くものにはしたいなとは思ったんですけど、自分は会社員も務まらなかったのに、お金を貯めて開店資金を作り出して経営するってことがイメージできなかったですね。

■ モノを人に伝えるのが得意な仕事をしているから、この方が作るカレーをちゃんと伝えられるんじゃないかなぁ

―― すいません、大変お待たせしました。おふたりの出会いはどこだったんですか?

平尾理栄子さん(以下、理栄子さん):共通の知り合いのバンドメンバーがやっているバーで知り合いました。その時わたしはアパレルで働いていて。結婚したあとに、独立しようかみたいな話になって、わたしは一回も飲食店を経験したことがなかったのでプルプルで1年間働きました。09年に出会って2010年、出会って1年もたたないうちに結婚しました。

暁さん:自分でやったほうがいいよと言うんで。やれんのかなという不安はありましたね。でも諦めないでずっと言い続けてくれてたので、じゃあやるかって。

理栄子さん:わたしもずっとアパレルでモノを人に伝えるのが得意な仕事をしているから、この方が作るカレーをちゃんと伝えられるんじゃないかなぁというのもあって、一緒にやろうと。

―― 独立の準備は大変でしたか?

暁さん:まず物件探しから始まって。契約できそうな物件が見つかったのでプルプルをやめるということになったんですけど、そこで不動産屋さんにはじかれちゃったんですよね。仕事はやめたけど、始める店もないと。また物件探しからになって。

 普通の大きな不動産屋さんにお願いしてたんですけど、そうするとこういうサイズの物件って出てこないんですよ。これの倍くらいの大きい正方形の物件はなんぼでも出てくるんですけど、こういう縦長で2人でやるのにちょうどいい物件っていうのがほんとなくて。都合2回負けたんですよね、物件に入る競争に。見つかるまでは知り合いのキッチンでバイトしたり、家で試作したりしてました。

―― 物件探しにあたっては、なにかこれだけは譲れない条件みたいなものはあったんですか?

理栄子さん:家賃ですね。絶対10万円以下っていう。初めてお店やるじゃないですか。家賃がどれくらいというのもあんまりよく分かってなくて。知り合いの飲食店の人とかに聞いたら15万とかだったら安いよって言われてたんですけど、そこは固定費だから10万円以下で探した方がいいと言ってくれた人がいて。

暁さん:お酒を出している商売の知り合いが多かったので、15万なら全然いいんじゃないというのがあったんですけど、10万以下でって言った人のいう通りで、2人でやっていくにあたって、もし15万のところに入ったらちょっと今の状態ではいられなかったなと。

理栄子さん:何も告知せずに始めたので全然人が来なくて。あれで15万だったらつぶれてましたね。

―― 結果的にとてもステキな物件が見つかってよかったですね。

暁さん:そうですね、階段以外は本当に(笑)。

―― 階段以外は?(笑)

理栄子さん:最初中を見せてもらう前に入口に来て「ここだわ」って話になって、見たらすっごい急な階段で「これ…大丈夫?」って。

▲理栄子さん「ここを決める時の難関は階段でした」

理栄子さん:でもとりあえず中見てから決めようって言って。入って見たら窓もすごくたくさんあって、「ここがいい!」って。

暁さん:すぐにやれそうなイメージが湧きました。

▲市電通りに面した大きな窓で明るい店内

―― 物件探しには苦労されたようですが、カレー自体は準備万端でしたか?

暁さん:最初は無理しないでおこうということだったので、チキンレッグのメニュー3パターンと、ノーマルのキーマカレーと、村上さんが昔から肉食べられない人いるから肉入らないメニューあったほうがと言ってたので、とうふときのこ。無理して在庫抱えるよりはちゃんと回ったほうがいいなとおもったので、それだけで始めました。

―― いざ開店してみてどうでしたか?

暁さん:初日は知り合いで40人来たんですよね。そのあとしばらくランチで10人いかないくらい。

理栄子さん:この辺界隈の人たちもやっぱりなかなか中が見えないからなのか、なかなか階段を上がって来てくれなくて(笑)。看板もちっさいし、何の店だろうみたいな感じだったと思うんですけど。この辺の会社の人が来るまでに2年くらいかかりましたね。

暁さん:定着するまで時間がかかりましたね。テレビに取り上げてもらうこともあったんですけど、そんなのも一瞬でまたストンと落ちて。合間に雑誌の取材も入ってきて、ちょうどその頃にインスタが。それが噛み合って、3年目ぐらいで普通になりかけた。2018年くらいから。

―― わたしもお店のSNSの更新、毎日楽しみに見てます。

理栄子さん:アパレルだったときに必ずあさ同じ時間くらいに(SNSを)アップをするということをずっとしてたんです。それやったほうがいいなと思って、同じ時間帯にあげるようにしてます。

 めんどくさいと思った時はないけど、ネタがないなと思うことはあります。きょう別に特別なものないから、毎日同じコメントになっちゃうなみたいな(笑)。レギュラーメニューが続いた時は前半のコメントを厚くしたり。毎日なんかちょっと楽しんでもらえたらいいなと。

―― お店で提供しているスープカレーは、1日平均すると何杯くらい?

理栄子さん:40杯くらいですね。

―― 2人で働くペースとしては40杯というのはいい感じ?

暁さん:そうですね。病気もあったので、45くらい売れれば老後の蓄えができるのかなとは思います(笑)。でもいま暮らしていけるのは40出てればいいのかなと。値引きしてる時間もないし、無料のサービスとかもほとんどないんで。低い所から始まって、突然テレビとかで乱高下して。2019年に某番組と某番組が一ヵ月くらいの間に立て続けに入って、それでめちゃくちゃだったんですよ、あのあと1年間。昼で50人来ちゃったりとかして。開店前に窓の外見たら15人くらい並んでて。

理栄子さん:向こうの駐車場のほうまで並んでて。すごいプレッシャーでね。

暁さん:いまはこれくらいで暮らしていけるんだなって分かってきたけど、当時は考える余裕もなかった。で、一日70杯、80杯とか。

理栄子さん:2人でもう殺伐としてね(笑)。

■ 悩んだりもしたんですけど、でも戻ってこられる場所は残しておかないとなと思って

暁さん:3人、4人でやってるような数字を2人で1年間やり続けて。来年からは落ちつくかねって言ってたくらいのときに(理栄子さんが)ものすごいヒザを怪我して。ただ転んだだけだったんですけど、病院の先生も見たことがないくらいの損傷で。

理栄子さん:おととしの11月、ちょうど初雪みたいな日に店の近くの歩道で普通に転んだだけなんですけど、転び方が悪くて。左足のじん帯切って、左ひざの関節包も破れてて。

暁さん:入れ替わり立ち代わり知り合いが手伝いに来てくれて、なんとか営業はできてて。1日だけ病院についていくので休みにして、基本的には毎日開けてた…いま思えば夜とかやんなきゃよかったと思うんですけど。夜は手伝いがいないので、1人で作って出してですね。早く片付けて帰ればいいんですけど、疲れちゃって終わったら1時間2時間寝てしまって何時に帰ったか分からないみたいなこともあって。

 で、かみさんが11月から一ヵ月入院して出てきて、12月29日。ずっと胃が痛かったんですけど、持ってる寸胴を落とすくらい痛くなって。胃薬とか飲みながら働いてたんですけど、いよいよ胃潰瘍の人みたいに便が真っ黒になって血が出てというのが出始めて。出血したのかなくらいに軽くみてたんですけど。うちの親がその専門の医師なんですよね。もう80歳なんでいまはお年寄りを見るようなセクションにいるんですけど。で、電話したら「いますぐ病院に行け!」と。小さなクリニックに行ったら、その状態ではうちでは見られませんと言われて。

 (札幌)医大とかも閉まってたんで。胃カメラを使えるクリニックに12月30日に。琴似駅にあって。そこでは診るまでしかできない。あまり良くないようなので、もう1つ琴似に受け入れられる病院があって、すぐそこに入院してくださいってなって。その時そっちの病院でも胃カメラ飲んで、ぼくは聞いていなかったんですけど、たぶんガンだと思うと。

理栄子さん:病理検査とか年末なんで出せないですよね。でもたぶん間違いないと思うと言われて。伝えたのは…寝てたから、起きてからだっけ?

暁さん:その時は聞いてないよ。もう一回検査したときに、担当の先生に「ガンの疑いが強いと思います」とサラっと言われて。

―― そのときまでは、まったく考えていなかった?

暁さん:そうですね。あんまり病気とかもしたことなかったんで、胃潰瘍以外には思ってなかったですね。ちょうど(妻が)ケガしてバイト入れてキツかった時期だったんで、ちょっと胃悪くなったんだなくらいに思ってたんですけど。妻が足も曲がらず松葉づえもついてたんで琴似の病院じゃ入院は厳しいなと思って、結果出てから医大にうつしてもらって、手術して。1月27日。

 で、2月に出てきて。胃が5分の1になっちゃったので、ちょっと食べては詰まっちゃって。で、少しは食べられるようになって、寝ててもしょうがないなということで、2月の後半くらいにちょこちょこと慣らしの営業を始めて。3月からランチだけ始めて。

 まる1年、抗がん剤治療をやったんですよね。最初8カ月くらい点滴のきついのがあって、それと並行して飲み薬を1年間。ステージ3のC、ほぼ4だったので。

―― 店をどうしていくか2人で話をしたりもしましたか?

理栄子さん:本当にちゃんと治るのかというのもあったけど、手術はちゃんと成功しましたというところで。いっかいは辞めなきゃいけないのかなと思ったりもして、その時は悩んだりもしたんですけど、でも戻ってこられる場所は残しておかないとなと思って。

▲築70年、窓の外には市電が走る

暁さん:腹腔鏡手術だったのでまったく動けなくて日々具合悪いわけじゃないし、出てきて立ってる時間が長いほうが体力も戻るかなと思って、ランチだけ始めて。体もしんどかったんですけど、コロナも広がり始めたこともあって、半分でいいか、無理しないでテイクアウトだけでゆっくりやるしかないもんねという感じで。

―― 手術から復帰まで一か月半くらいあいて、久しぶりにカレー作ったときはどうでしたか?

暁さん:もともと間あくとものすごい強迫観念がある感じで。正月も5日休むと、最後の2日くらいは仕事の立ち上げに苦しんでる夢を見るくらい(笑)。きっと若い頃にちゃんとやってなかった時期とかがあって、自分を信用してない部分があるので、ちゃんとできるのかと不安で始めて。自分的には割とフラットな感じで、間違いのないようにが一番だなという感じだったんですけど、すぐお客さんが待ってて来てくれたので、非常にありがたかったですね。すぐにその日に40人くらい来てくれたので。

―― 味の感覚に影響は?

暁さん:いま思えばあったんだと思うんですよね。なので、新しいメニューの開発とかはいっさいしてなかったです。ただ過去のものは全部数値化してるのと、カレーも例えば60人分くらい作るにあたって、これまでとったスープの塩分量とか全部ぶれないようにしてあるので、最後小さじに2杯塩を入れるか入れないかぐらいの調整で済むようにしてあるんですよね。なので、自分の舌は疑わしいけども、多少のぶれはあったのかもしれないけど、やれないことはないなと。

―― 病気を経験していまどうですか?

理栄子さん:あんまり変わったことはないかも。元通りというわけではないですけど、時間も短くしてますし、身体も今後老後に向かっていくので、あんまり無理をせずに味を守ってぶれずに。

暁さん:家族にもお客さんにも支えられてというのは実感しますよね。

■ たとえば人を入れて、自分がいない日の営業があるようにするかしないかというのも、だいぶ大きな第一歩

―― お2人の出会いは音楽関連の共通の友人を通じてということでしたけど、音楽は今やっているんですか?

暁さん:そうですね。決まってるバンドが2つあって。さすがにちょっと去年今年はあまりできていないですけど。キーボードとして。

―― スープカレー店と音楽って距離が近いイメージを持っているんですけど、どうですか?

暁さん:ですね。ぼく自体はそれ自体がいいかどうかは考えるところなんですけど、初期の頃のスープカレーに関しては、カレー文化全体的にそうなんですけど、すごく料理修業しなくても始められるところがあって、絵を描いたり音楽やってる人のアイデアや雰囲気が活きたりがあると思うんですよね。

 そういう人から始まってそういう雰囲気が好きで集まるお客さんもいたと思いますし、そういうところで形成されていったのかなと思うんですよね。狸小路7丁目の辺りは店やってる人も、バンドマンも、クラブ音楽の人も集まるし色んなものが交わってる。またススキノとかとは違うんですよね。サブカルチャーの人たちがカレー好きだったり。それがこの辺で20年、30年と続いてる感じはしますよね。

―― スープカレー、いまや札幌の定番グルメになりましたよね。

暁さん:ビジネスとして会社がやってるとか、修行したわけじゃないけど行列店を構えたり、そういう比率も増えてきたなと思うんですよね。一般の人に認知されるということであれば必要なことだと思うんで。特にそういう外食ビジネスの人たちがやる店があるから個人店のよさが引き立つというか、そういうところに目を向けてくれるお客さんもいると思うので。

▲チキンとあさり

 約200ccの汁物に1,000円くらいになるように具材を入れてと、けっこう縛りはあるんですよね。その縛りとか制約があるのを楽しんでもらえるうちはいいのかな。なんか年々新しい店は汁が少なくなって具材が多くなってるような気もしてますけど(笑)。

―― 暁さんが作るカレーの方向性は今後どうなっていきそうですか?

暁さん:もともとチキンレッグ以外のカレー以外は、どこ行ってもあんまり食べないんですよね。若い頃は野菜がいっぱい乗ってるものとかも食べましたけど。一番シンプルなチキンのカレーを、というのは変わらないですね。

▲チキンレッグのカレー

 ただ残念ながらそれだけでは店は立ち行かないと思うのでいろいろやってるんですが、なるべく変なことやらないで続けていけるような店であり、業界であり続けてほしいなと。試行錯誤はしますけどね。なにか変わったことをやっていこうというよりは、この感じで続けれたらいいのかなと思います。

理栄子さん:以下同文です(笑)。

――お店の今後についてはどうですか?

暁さん:退職金があるわけじゃないし、何歳までできるか分からないので、たとえば権利収入的なものが生まれないと、子供もいないし悲しい老後を送るんじゃないかというのは、わりと常に恐怖ではあります(笑)。店をどうしていくかは考えなきゃなとは常に思っているんですが。お店を一杯増やしてとかは自分の器じゃないと思うので。

理栄子さん:カレーのことはこちらに任せてるんで。お店は基本的には皆さんがほっとするような場所を作っていければいいなと。自分たち2人でできる範囲内で、自分たちの器に見合った商売をしていくことくらいですね。

暁さん:たとえば人を入れて、自分がいない日の営業があるようにするかしないかというのも、だいぶ大きな第一歩だと思うんですよね。自分もこの仕事に関してはけっこう細かいので、任せられるなと思うまでには自分も変わらなきゃいけないし。ちゃんといいとこ見てやらなきゃいけないしとか。まだ自分もそういう感じでもないので、いい人に恵まれて自分が広い心でいられるようになったら、そういうこともあるかもしれないですけどね。

―― 体調の心配はもうないですか?

暁さん:いまは「戻ってきたな」って感じですね。食べた後の低血糖とか、ダンピングっていうんですけど動けなくなったりするんですよね、朝食べたら着替えて出てくるまですごい時間かかったりとか。わりと何ヵ月か前まで病気そのものと抗がん剤のせいで、貧血の値が基準値よりだいぶ下だったけどそれもだいぶ治ってきた。肝臓や筋肉量も戻ってきてるので、再発しなければやっていけるかなと思ってます。

理栄子さん:そうですね。いまの体調はだいぶ戻ってきてるけど、体力的なものはそれでなくても落ちていくから、無理しないでいただきたいなとは思います。基本的には何でもやりすぎるタイプなので(笑)。無理しないでちょっとずつやったほうがいいよと。徐々にやらないとっていうのは常に言ってます。

暁さん:新しく店を始める人には言ってやりたいと思います。どうしても波に乗るまでみんな休みなしでやるとか、ひとの流れみたいから二週間休みなしでやるとか言いがちなんですけど、最初の頃こそ開店でストレスかかってると思うので、ちゃんと休まないとだめだなと。

―― お店を好きでいてくれる皆さんにはどんな思いですか?

理栄子さん:感謝しかない、そのことばに尽きる感じですね。休んでる期間があっても、待ってたよって言ってくれる人たちがいて。そういうお店になると思っていなかったので。

暁さん:暁さん:シンプルに非常にありがたいことですよね。(務めていた店と比べて客との距離が)いまは近いので、声を掛けてくださったりとか。SNSはかみさんがやってるのでぼくは見るだけですけど、いろいろメッセージくれてるんだなと。

理栄子さん:よくこの急な階段をみなさん登ってきて、見つけてくれたなと思います。ありがたいです。

▲おふたりに見送っていただきました