人生ゲーム
誰かと競ったり、点数がついたり、勝ち負けがついたりするものではないのだけど。
私の人生、なんだかゲームみたいだったなと思う。(現在進行形)
ゲームとは言っても、私はゲーム機やスマホでのゲームはまったくやらないので、流行りのゲームなど全く知らない。
なにかがひどくもつれて、絡まりあって、すごく苦しい状態で生きてきた。
がんじがらめの檻の中に閉じ込められたような閉塞感だった。
なにがそんなに絡まりあっているのか。
手探りしながら少しずつ少しずつ解きほぐして……。
謎解きゲームのような?脱出ゲームのような?そんな感じだったかもしれない。
自分の人生を振り返ると、綱渡りのようだったと感じる。
苦しいことだらけだった私の人生。(たいした人生ではないのだけど)
ため息しか出ないほど苦しかった。その苦しさをどうにか自分で解き明かしたかった。
どうにかして解決したかった。生きるために。生き抜くために。
自分なりにたくさん情報を集めることが必要だった。
その情報に照らし合わせて、自分の置かれている状況を分析していくことも必要だった。
そこから自分なりの動き方を模索していくことが必要だった。
私が一番苦しいと感じるのは、自分の生まれ育った家族。
コミュニケーションが全く成立しない機能不全家族。
いろいろな事情で早くに離婚した私は、今も居心地のいいとは言えない実家で年老いた自分の両親と暮らしている。
ひとつ前のnoteで自分の父について書いた。
家族に対して日常的にネガティブ・コミュニケーションをぶつけてくる父。
それが父にとっての当たり前だし、それが家族をどれほど傷つけているかまったく気がつかない。
何より本人にとっては「当たり前」の言動だし、周りを傷つけているというつもりはまったくない。
傷つけているつもりがないどころか、そんなコミュニケーションが愛情だとさえ勘違いしているもよう。
傷つけているつもりがまったくないというのは、何よりたちが悪い。
本人に「意識」があるのなら、話し合いも成立する。
本人にまったく「意識」がなく、どちらかと言えば「よかれ」とさえ思っている言動。
話し合いどころではない。
そんな父との、闘いの人生だった。ため息しか出ない。
私はどうしてこれほど自分の父と闘わなくてはならないのだろう。
たぶん、世の中に本気で自分の親と闘いたい人は、ほぼ存在しないのではないだろうか?
自分の親と闘わなくてはならない状況の人は、私と似たようにすごく苦しい思いをしているのではないだろうか?
なにを言っても聞いてはくれない。
本人はよかれと思ってのネガティブ言動なので、聞く耳を持たないのは当然かもしれない。
なぜ家族を前にすると、豹変してしまうのか?そのスイッチはなんなのか?
これから先も解き明かせそうにはない。
家の中に監視カメラをこっそり取り付けたいと何度本気で思ったことか。
録画したものを本人に見せたら、どれほどひどい言動を家族にぶつけているか少しは気付くだろうか?
録画したものを皆さんに見せたら、家の中では豹変する人間なんだということを皆さんが少しは理解してくれるだろうか?
とにかくもうこれ以上、家族への、私へのネガティブ・コミュニケーションは困る。
私は父になにをするかわからないところまで追い詰められている。
やっかいな病気を抱えた私には、精神的な余裕がまったくない。
自分自身の心身が常に不調な中で、要介護の母のことも気をつけて過ごさなくてはならない。
そこに父からの攻撃まで加わったら、冷静な対応なんて、ムリ。
そのムリという私の言葉が誰かに親への甘えだと罵られようが、私にはムリ。
ムリなものはムリ。
私は神じゃない。神になりたいとも思わない。
2年ほど前、ひょんなことからInstagramを始めることになった。
私の長男が私の父の跡を継ぎ、正式に家業の三代目となった。
二代目の私の父はサラリーマンの傍ら、細々と家業をやっていた。
仕事を退職したあとは、年金のおかでどうにか家業が続けられたような状態。
残念ながら経済的な目処はまったく立っていない。
これから息子がどうやって生活を成立させるのか、まったく見通しは立たない。
とにかくまずは発信が必要だろう。ということで、半分以上仕方なく始めたInstagram。
慣れてくると生活の一部となり、そこは私の貴重な居場所となった。
少しずつ家族のことも(書ける範囲で)書くようになった。
情報発信というよりも、なんだか自分の愚痴の吐き出し場所。
そんな愚痴の吐き出し場所があったから、精神のバランスをかろうじて保てていたと思う。
読んでくださっていた方にとっては、あまり気持ちのいいものではなかっただろうなと思う。
父については、やっぱり書くのが難しかった。
不思議なもので、どんな父でも、わざわざ悪者に仕立てたいという気持ちにはなれない。
でも、世間体を取り繕って「いい人」に仕立てることもできない。
あまりにも腹が立ってどうにも気持ちの収まりのつかないときには、父のことも書いた。
ありのまま。私から見える事実を書いた。
父を悪者として文章に残すのは、気持ちのいいことではない。
でもどうにか気持ちを吐き出さなければ、自分が押しつぶされて壊れてしまう。
これまで、なにか問題が勃発するたびに私は父手紙を書いた。
基本的に話を聞いてくれる人ではないから、言いたいことをぶつけるには手紙という形を取るしかなかった。
どれだけ書いたかわからない。数える気にもならない。
どれだけ書いても私の気持ちは届かなかったけど。
あるとき、とうとう、宣戦布告のような手紙を書いた。
「家の中でのお父さんの言動を私はSNSに書いてるよ。読んでくださっている方には家の中でのお父さんの様子が全部バレてるよ。」と。
自分の父親にそんな「脅し」を突き付けなくてはならないなんて。自分自身も気持ちがどん底に落ちた。
でも、本気でそこまでやらないと、父には伝わらない。
そこまでやっても伝わるかどうかわからないけど、そこまでやるしかない。
父との闘いは、生きるか死ぬか。私にとっては、それほどのもの。
命を賭けた闘い。
なぜ私はそこまでして父と本気で闘わなくてはならないのだろう。
最近、またあることで父に手紙を書いた。
「私はこれからも家の中のことを書き続けるよ。いいことも悪いことも、全部書くよ。これまでの人生を本にまとめてみたら?と友だちが言ってくれてるからそれも検討するよ。」と。
私にとっては、最後通告。最後通告になればいいなと思う。
私は父と闘いたいわけではない。父だけではない。父以外の誰とも。誰とも闘いたくなんかない。
でも、闘うしか自分を守る方法がないのなら、闘うしかない。
闘うことでしか生きられないのなら、闘う。とことん闘う。堂々と闘う。
生きるために闘う。相手が誰であろうと。
私の家族を傷つける誰かが現れたら、私はとことん闘う。
結局いつの間にか、私の文章は監視カメラの代わりになっていたよう。
監視カメラに録画する代わりに、私は自分の文章で父の様子を記録して発信していた。
そして父に「あなたの言動は、全部記録されてるよ。外の人にも全部見えてるよ。」と知らしめることになった。
街なかの防犯カメラのように、抑止効果が出てくれるだろうか。
父に手紙を書くたびに、胃がギリギリと痛む。そして毎回「これが最後の手紙となりますように」と心から祈る。
私は父に手紙を書きたいわけでもないし闘いたいわけでもない。
もうこんな闘い、終わりにしてくれ!と私は何十年も叫びながら生きてきた。
書くことは、私にとっての闘いだったなぁと思う。
相変わらず上手な文章は書けないし、読んでくださる方にとっての読みやすい文章は残念ながら書けない。
ただ、自分が書きたいと思うことは、そう苦しまずに書き出せるようになった。
結局、私に書かせ続けてくれたのは父なんだなと思う。
父という存在がなかったら、苦しい手紙や苦しい文章を書き続けることもなかった。
おかげで、書くことが苦手ではなくなった。
お父さん、
私は自分の書きたいことを書けるようになったから、もう無理に私に書かそうとしてくれなくてもだいじょうぶだよ。
お父さんが背負ってきてくれたその役目、もう安心して降りてくれていいよ。おつかれさま。
お父さんのことを悪く書かなくちゃならない文章を、私はもう書きたくないよ。
めいっぱい闘わせてくれてありがとう。
なにより私は、必死に闘えたよ。
相手がお父さんだったからだろうね。
どうにか闘いを終わらせたかったから、がむしゃらになれたよ。
もうじゅうぶんだよ。
最後通告が、本当に最後の手紙となりますように。
勝つ必要も負ける必要もない。競う必要はない。もうこれ以上、闘う必要はない。
私が望むのは、家族の中に穏やかな時間が流れること。
闘いが終わりますように。
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