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クリープハイプが聞こえない Vol.1『エロ』

「ねぇ、聞こえない。私このバンド好きなの、ボリューム上げて」
風になびく髪を片手で押さえながら、助手席の彼女がそう言った。ボリュームくらい自分で上げればいいし、まずは窓を閉めたらいいのに、と多少不服に思いながらも、俺は握っていたハンドルから片手を離してボリュームを上げた。運転はもちろん道案内をするわけでもない彼女は、さっきから、ペットボトルの蓋を開けてほしいとか靴を脱ぎたいのにサンダルのボタンが外れないとかくだらないことばかり頼んでくるから、その度に車を路肩に寄せた。到着予定時刻がどんどん遅くなっていく。そうなれば、困るのは彼女のほうだというのに。
 ボリュームを上げたラジオでは、変な声をしたボーカルが変な歌い方をしている曲が流れている。なんていうの、と尋ねたら、彼女は一言「クリープハイプ」と答えた。それがバンド名なのか曲名なのか再度聞いてみようかとも思ったけれど、意味がない気がしてやめた。

 彼女と俺の家は直線で20kmほど離れた距離にあって、彼女がうちに来てくれた帰りは、こうして最寄り駅まで車で送っていくのがお決まりになっていた。海岸線沿い、とは言い難い古い国道からは、建物越しに時折青い海が覗く。まだ出会ったばかりの頃、その海が見えるたびに彼女は「わぁ!綺麗!今の見た!?」とはしゃいでいて、「わき見運転で死んでもいいなら見るよ」と答えたら大喧嘩になったりした。言い方が気に食わない、なんて人生で生まれて初めて言われた。本音を言えば俺は、海よりも海を見てはしゃいでいる彼女の表情が見たかったのだけれど、それを伝えていれば彼女は俺の言い方を気に食ったのか、否か。
「ねぇ、昔このへんで喧嘩した時にさ、すっごい汚いラブホ入ったよね?」
 助手席から唐突に彼女の声がして、同じことを思い出してた、と苦笑する。「入った入った、本当はその向かいの綺麗なほう入りたかったのに空いてなくて」「それでまた喧嘩したよね」「え、してないでしょ、仲直りしたからホテル行ったんだし」「違うよ、セックスしたから仲直りしたんでしょ」
 どうやら俺と彼女の記憶に齟齬があるらしい。この話をこのまま続けるとまた彼女の機嫌を損ねかねないと思い、話題を逸らすことにする。
「結局、行けずじまいだったね、綺麗なほうのホテルには」
 話題、逸れてないかもしれない。一瞬の沈黙のあと、「今から行く?」と彼女が呟いた。その少し甘ったるい声が空気感を変える。ラジオから流れている曲は、いつの間にかどこかのアイドルグループの曲に変わっていて、そのどこかで聞いたことがあるようなお決まりのメロディは、俺の鼓膜を震わすことなく霧散していった。
 彼女の手が太ももに触れる。あ、とそれだけ思う。彼女がこっちを見ているのがわかる。いつものあの、俺がどうしても逆らえない、悪戯っぽい目で。
「……時間、ないよ。帰らなきゃいけないでしょ」
「じゃあここで舐めてあげる」
「何それ、いいよ。今朝もしたじゃん」
「されたくないの?」
 されたくないわけ、ないけど。
 まだ何も答えていないのに、彼女の手が俺のベルトに触れた。黙ったまま車を路肩に寄せて、頭を撫でてやると、彼女が俺を見上げて「ねぇ、もうすごい勃ってる」と嬉しそうに笑う。チャックを下ろす音にも、パンツの中からそれを取り出す彼女の小さな手にも、鬱陶しいくらいいちいち反応した。車の中で舐められるのなんか初めてではないのに、こんな青空の下という背徳感も混ざって一層興奮する。いや違う、もしかしたら、時間に間に合わなければいいと心のどこかで思っていたからかもしれない。
 あ、イキそう。そう思った瞬間、ブ、と、ダッシュボードに置いてあった彼女のスマホが震えた。
「……ねぇ、やっぱりホテル行こう。綺麗なほうのホテル」
 スマホを確認して、彼女は呟く。
「いいの?」
 聞くと、彼女は唾液で濡れたそれをゆるゆるとしごきながら答えた。
「うん。今連絡があって。主人、仕事で夜まで帰って来ないって」

 主人、って呼ぶのがお嫁さんみたいで好きなの。まだ籍は入れてないんだけどね。
 彼女がそう言ってきたのはたった三日前の話で、ああ終わりっていうのは案外あっけないものなんだなぁと拍子抜けしたのを覚えている。彼女を送り届けて家に帰ると、近所のスーパーの福引でもらったカレンダーが目に入った。「私が来るのが楽しみになるようにしてあげる」と彼女が勝手に丸を書き込もうとするから必死に止めた。丸くらい、いくらでも書かせておけばよかった。
 案外まだ時間は早く、20時を過ぎたばかりだった。行きも帰りも同じ距離を走ってきたはずなのに、彼女がいるのといないのとでは時間の早さが全然違う。この部屋も、彼女がいるのといないのとでは全然広さが違う。
 時間を持て余し、ネットでクリープハイプと検索してみた。彼女と車中のラジオで聞いた曲がなかなか見当たらなくて、やっぱりタイトルも聞いておくべきだったと思った。





どうせ最後はそうなるんだから

クリープハイプが聞こえない Vol.1 エロ



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