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クリープハイプが聞こえない Vol.5『蜂蜜と風呂場』

 眠たい目を擦りつつキッチンへ向かうと、彼女はまだ起きていた。ダイニングテーブルに座りパソコンを叩く姿に「仕事?」と聞けば、「まぁね~」となぜか得意げに笑う。
「そっちは?こんな時間にどうしたの?眠れないの?」
「うん、まぁ」
「なかなか眠れないならゆっくりお風呂に浸かるといいよ。それかハニーラテ作ろうか?」
 ハニーラテ、は、料理の苦手な彼女が唯一作れる得意料理らしい。本人がそう言っていた。得意げに胸を張っている姿が子供みたいで可愛かったので、それは料理とは呼ばないなんて無粋なツッコミはしなかったのに、「ちょっと?ここ笑うとこなんですけど」となぜか彼女はふてくされた。
 牛乳たっぷりのカフェオレに、蜂蜜を垂らしたハニーラテ。その味は確かに美味しいし、底冷えするこんな夜にぴったりだとつい頼んでしまったけれど、寝れない理由はもっと別にあるからして。
「……歯、痛いんだよね」
「歯?」
「親知らずだと思うんだけど」
 見せて、と、彼女が牛乳を置いて近づいてきた。口を開けると、大きくて丸い目をさらにまん丸くしながら覗き込んでくる。「もっと開いて」「ねぇ、もっと」この構図とその声は、ちょっとばかり股間に悪い。
「あー……ほんとだ?生えてきてるね、親知らず。親は知らないのに私は知っちゃった。もう後戻りできない関係ですな?」
 照れたように舌を出して笑い、「明日歯医者さん行きなよー」と彼女はハニーラテ作りに戻る。
 彼女との生活はとても幸せで、時間がゆっくりと流れていて、だから親知らずが生えてきたことにも今の今まで気付かなかった。いや本当は、生えてきているのを知っていたのに、時折痛むのがわかっていたのに、気付いていないフリをした。例えば俺は寝付けない夜にはセックスをするのが一番早いと思うのだけど、そんなことを口にするとまた彼女の機嫌を損ねるのでグッと堪えていたりとか、そういうことに、親知らずは似ている。

「あー、生えてますね」
 歯医者は、レントゲン写真を見ながら言った。口を大きく開けて診察されるんじゃないのか、と内心ちょっとホッとしたものの、「痛みがあるなら抜いちゃいましょう。あとは、他に虫歯がないか見ていきますね」と結局大口開かされた。
 口の中を他人に開示する、というのは、どうにも落ち着かない行為だ。相手に弱みを握られているような、目を離したら襲われてしまいそうな、そんな恐怖と、被支配感。あとは何というか、パンツを脱いでちんちんを出すより恥ずかしい部分を見せているような気がしてくる。
 だからなのだろうか。彼女が、自分との行為を嫌がるのは。だけど俺は、彼女の恥ずかしがる姿が、見た、
「……ッい、!!」
 ガツン、と奥歯だけを殴られたような痛みが口内に広がり、飛びあがりそうになった。
「あー、ごめんごめん。麻酔効いてなかった?もう終わるからね、はい痛いよー」
 ああ、なんというか、本当に。
 なんで俺は、歯医者ごときに服従させられているんだろう。

「……それで、そんな顔になっちゃったの?」
 麻酔が抜けきらない口元と、腫れた左頬を見て、彼女は心底おかしそうに笑った。もう少し心配してくれてもいいのに、と少しいじけてみせると、ごめんごめんとマグカップを掻き混ぜる。彼女は今日もハニーラテを飲む。まだまだ今夜も、仕事が終わらないという証拠だ。
「何か食べる?ああ、でも、痛くて無理か」
「うん、何も噛めなそう。めっちゃ痛い」
「もう寝ちゃったら?明日にはきっと痛くないよ」
「うん、そうなんだけど、」
 ズキズキ、と歯を抜いた跡が痛む。親知らずを抜いたら、なんだか体が少し軽くなった気がしたのに、ズキズキと重たく響くような痛みはどんどん酷くなっている気がする。俺は歯医者に行って、口を開けて、親知らずを抜いたのに、ズキズキと、痛むのは本当に奥歯だけなのか、どうか。
「……舐めて」
 彼女との関係は、まるで親知らずみたいだ。
 驚いたように瞬きをした後、彼女は取り繕うように笑みを浮かべる。「何言ってるの、今日は調子が悪いんでしょ」「うんだから、舐めて」「ちょっと待ってよ、だってまだお風呂も、」「朱莉」
 ピタ、と彼女の動きが止まった。久しぶりに呼んだその名前に、なんだか歯が浮きそうになる。それは彼女も同じだったのか、ハニーラテを一口飲むと、思案するように視線を彷徨わせた。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
 手を引いて寝室に移動すると、彼女はすぐに俺の服に手をかけた。丁寧に脱がせて、それに小さな手を添える。俺とは目を合わさず、ただゆっくりと、長い髪を耳にかけた。
 彼女は、舌から迎えに来る。時折息をつきながら、丁寧に、一生懸命舐めてくれるその姿は、俺がだらしなく口を開けていた歯医者でのそれと似ても似つかない。俺の口の中はこんなに痛いのに、どうして彼女の口の中はこんなに気持ちいいんだろう。歯が痛い。こっちは気持ちいい。本当は、もうずっとずっと、ずっと前から、おかしくなりそうだった。
「……美味しい?」
 あまりに彼女が美味しくなさそうに舐めるので、AVを見すぎたおじさんみたいなことを聞いてしまった。自分のセリフに、自分自身で興奮してくる。
「ん……美味しいよ?甘くて……蜂蜜みたい」
 俺を見て、表情を崩さずに彼女は言う。悲しそうな、切なそうな、苦しそうな、ちょっと奥まで押し込んだら、きっと泣き出してしまうんだろう彼女の顔。
「それは、さっき飲んでたからじゃないの」
「違うよ。……多分、違うよ」
 ぺろり、と彼女の赤い舌が唇を舐めて、彼女の作るハニーラテの味が思い浮かんだけれど、辺りに漂うセックスの香りとどうにも噛み合わず脳が混乱する。
 甘ったるい、彼女の匂いが好きだった。鼻腔の奥に充満する、それをいつまでも逃がしたくなかった。
 まるでそれは、ハニーラテの最後の一口のようで、甘さだけが沈殿して到底飲めそうにないその部分のようで、俺はいつも、半ば無理やり彼女の中に入った。ズッ、といとも簡単に沈んでいく棒で、懸命に彼女のポイントを探す。
 どうして、なんで、どれだけ掻き混ぜたって最後には必ず甘ったるい蜜だけが残る。あんなに一生懸命、かき混ぜながら飲んでるのに、どうして。
「重いの、かもしれないね」
 別れ際の、彼女の言葉だった。「多分、あなたが思うより、あなたは私を必要としてるでしょう」。その言葉の意味がわかったのは、彼女と別れて、何年も経った後だった。

「あー、生えてますね」
 レントゲンを見て、口の中を見て、歯医者は「うん、生えてる」と繰り返した。
「下は全部抜いたんですね?」
「はい、随分昔に」
 親知らずが痛いかも、と思ったのはもう一カ月以上前のことだったけれど、ついつい先延ばしにしていたら耐えられないほどの痛みに変わってしまった。あの頃と同じように、大口開けて歯を抜いてもらう。もうちゃんと覚えているわけでもないのに、なんとなく、あのハニーラテの味が蘇ってきた気がして、院内の薬品臭と噛み合わずに脳が混乱する。
 今回はあまり腫れなかったな、と頬をさすりながら家に帰ると、「パパ―!」と下の娘が突撃してきた。
「パパ!歯がないの!?お口見せて!」
「いや、あるよ」と笑いながら口を開ける。まじまじと俺の口の中を見ているらしい娘が、「ん~?ん~……これなぁに?」と喉奥に手を突っ込んできておえっとえずく。
「ユミちゃん!?お口に手を突っ込んじゃダメ!」
「なんで?」
「パパ苦しいでしょ!」
 言いながら、歯を抜いたばかりでできた穴が少し痛むのを感じていた。処方された痛み止めを飲もうかとも思ったけれど、もう少し、この痛みに慣れておきたくてやめた。





もう時間無いから口でよろしくね

クリープハイプが聞こえない Vol.05 蜂蜜と風呂場



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