ケプラーの校則 第2話(バイト)
#創作大賞2024
#恋愛小説部門
結局、僕は彼女の言いなりで、次の日からその倉庫のような建物の中で、シール貼や箱詰めのバイトをすることとなった。
その日は朝から憂鬱だった。
そもそもなんでバイトなんかしなくちゃいけないのかと後悔した。そして授業が終わるとそのまま帰ってしまおうかとも思った。
しかし、僕はやはり人が良いのか、それとも天体望遠鏡を買うと言うことに魅せられているのか、授業が終わる自然とあの部室へ脚が向かった。
部室の戸を明けると彼女は既にそこに居た。そして、僕のあまりさえない表情を見ると、
「どうしたの俊太?あまり嬉しそうな顔じゃないわね」
「別に何もありません」
当然、嬉しいわけがない。
僕はそう言うと彼女は何も気にしない感じで「そう」と言い
「それじゃ行こう」
と言って立ち上がった。
僕たち二人はバイト先である工場に歩いて行った。
工場に着くと最初に事務所に行った。
彼女は勝手を知っているようで、事務所のドアを開け「こんにちわ」と明るい声で挨拶をした。
事務所内はやや暗く、四・五人の少し年配の方達がいた。
明日香さんの挨拶に、そこにいるみんなはこちらを向き挨拶を愛想よく返した。
そして、すぐに奥の方から水色の制服を着た女性の事務員さんがこちらに歩いて来た。
「あなたが姫野さんのお友達の筧さん?」
その人は僕の方を嬉しそうに見ていった。そして僕の名前を知っているのに少し驚いた。その女性は三十代半ばぐらいのようだが、もう少し若いようにも見えた。セミロングの髪を後ろに束ねていて、着ている制服がややダサいように見えたので、最初はただの事務の叔母さんかと思ったが、よく見るとスラッとした身体にどことなく漂う上品そうな雰囲気があった。
そして僕は少しだけ胸が高まる感じがした。
「え、友達ですか?」
僕がそう言うとその女性は少し笑顔が消え、
「違うの?」
と、少し残念そうな顔した。
僕はなんとなく悪いと思い、
「いやっ、まあ・・・・・・そんな感じです」
そう言うとその女性は再び笑顔が戻った。
『明日香さんはこの人に僕のことを友達と紹介しているんだ』
そんなことをチラッと考えた。
「今日は来てくれてありがとう」
その女性は、既に明日香さんの事は知っているようだった。しかし『来てくれてありがとう』とはどういうことだろう。ここはそんなに人手不足なのだろうか?
そう優しく言う女性は『安田麻里子』さんと言った。
僕たちは事務所内にあるテーブルに着くようにと言われ、
「この履歴書に記入してね」と用紙を渡され、その後は作業の内容や報酬などについて、わかりやすく説明してくれた。
明日香さんは既に履歴書などを出していたのか、それとも既にここでバイトしていたのかわからないが、必要書類は要らないようだった。
「もしかして、筧さんは姫野さんの彼氏かしら?」
冗談とも本気とも取れない優しい笑顔で僕にそう言うと、横にいた明日香さんは
「彼氏の訳ないです。ただの後輩です」
彼女は語気を強めて言った。
「それに俊太はどうやら年上が好みみたいですよ」
明日香さんは、僕の微妙な心の動きを察知しているのか、安田さんに対して皮肉るように言った。
「別に僕はそんな事は・・・・・・」と言葉に詰まった。
安田さんは「ウフフ」と少し笑い、僕たち二人を見て、
「あら、私の勘違いかしら。あなたたち二人はお似合いと思ったんだけどな。それはともかく、筧君は姫野さんと一緒にラベル貼りから初めてね。作業場に案内するわ」
僕たちは、事務所のすぐ隣の作業場に案内され、製品が山積みとなっている倉庫の仕分け場所の一角にある、作業用のテーブルに座った。
「それじゃ作業内容を説明するわね」
安田さんがそう言った時、明日香さんが、
「わかっている。わたしが俊太に説明するわ」
と言って、いつもの上から目線で、僕に作業内容を説明し始めた。
「この製品の箱のここの部分にこうしてラベルを貼ってから、この大きな段ボール箱に一つずつ入れてね。丁寧に。それで、これがまとまったらあのコンテナの所に持って行くのよ」
やはり、明日香さんはここでバイトをしていたのだろう。作業内容は彼女が全部説明してくれた。
「はい」
僕は素直に返事をした。
「そうね。大体は姫野さんが知っているから、わからないことがあれば彼女に聞くと良いわ」
そういうと安田さんは「あとはよろしくね」と明日香さんに言って、事務所に戻って行った。
僕は去って行く安田さんを、自然と目で追ってしまっていた。
「俊太!変態」
明日香さんの罵声が聞こえた。
「いつまでも見てるんじゃないの。わたしは、か弱いから力仕事ができないの。だからラベル貼りと箱詰めだけするわ。運ぶのは俊太の係ね」
と強めに言った。
時間は一日二時間程度。工場そのものは交代制で土曜日もやっているらしく、僕たちは土曜日には5時間働くことにした。週に6日働いて1万2~3千円だ。二人で働くと月に10万円程度になる。もちろん途中で試験などあるので毎日というわけにも行かないが、概ね二ヶ月もここで働くと目標金額には十分になる。
「このラベルを貼るんですか?」
「そうよ、丁寧に。24個溜まったら、この箱の中に詰めてね」
「はい」
僕は作業に集中した。
なんでこんなことになったかと最初は後悔もしたが、あの安田さんに会えることに少し幸せなを感じた。しかし、それは“恋”とは少し違うような気がした。
作業の時はお互いあまり無駄話をすることもなかったが、いつも1時間ぐらい働くと、安田さんから、
「少しお茶にしたら?」と、コーヒーやクッキー、暑いときにはジュースなどを差し出してくれた。
その安田さんと明日香さんは、どういう訳か仲が良さそうだった。
人をあまり近づけない雰囲気がある彼女と親しげにしている安田さんは、少し不思議な感じがした。
僕たちは来る日も来る日も作業をした。
そんなある日、明日香さんが作業をしながら僕に訊いてきた。
「ねえ、毎日こんな事して楽しい?」
明日香さんにしては意外な事を訊いてきたと思った。確かにそんな楽しい作業ではないけど、別に嫌でもなかった。
「そりゃ楽しくはないですけど、学校が終わってうちに帰ってもやることがないし。兄貴はバイトなんかでいないし。あっ、言ってなかったですけど実は今、僕は実家を出て兄貴と二人暮らしなんですよ」
「そうなんだ。ねえ、『あの時、あんな女と話しさえしなければこんな事にならなかったのにな』なんて考えていない?」
確かにそう思っていたこともあった。だからといってそれを恨むつもりもないし、成り行き上仕方がないと思った。
「僕はあまり大勢と付き合うのは得意じゃないですから。こんな自分のペースで出来る仕事は楽しいですよ。それにお金ももらえるし」
「そのお金だって天体望遠鏡になってしまうんだよ」
「最初からそのつもりですし。新品の本格的な天体望遠鏡が見られるのは楽しみです。明日香さんは不満なんですか?このバイト?」
「いや。そんな事ないけど」
そう言った明日香さんの横顔は、普段の高飛車な顔と違って、どこか申し訳なさそうな顔に見えた。
確かに普通の高校生なら汗をかきながら部活に熱中するとか、遊ぶなら街中へ出て美味しいもの食べたり、ゲームをして過ごすのが当たり前なんだと思う。それに比べ二人でひたすらラベルを貼り続けるなんてのはどうかと思う。でも、僕はこれが結構好きだ。無心になれるというか、何か生産性のある事をしている充実感と言うか、良くわからないけど気持ちは満たされていた。少し違うかもしれないが明日香さんも同じ感覚に近いのではないかと勝手に思い込んでいた。
それに安田さんに会うことも楽しみの一つだった。それは恐らく恋愛とは違うのかもしれないが、淡いほのかな温かい感情は、僕が今まで経験したことがない気持ちだった。
たまに試験などでバイトを休んだ日もあったが、二ヶ月も経つと目標の15万円を越えた。
季節は6月下旬になっていた。
「今日で一旦バイトはおしまいね。残念。でもまたお金が必要になったらいつでもいらっしゃい」
安田さんはそう言うと、残念そうな顔をして、最後のお給金を渡してくれた。
そして僕も安田さんに会えないかと思うと淋しい気持ちがした。
「どうせまた来るから」
明日香さんは当然のように言った。
「え、またバイトするの?」
「だって、俊太だって麻里子さんに会いでしょ」
「いや。そんなんじゃないけど・・・・・・」
「ほら、言葉に詰まった」
僕は、どうも思っていることが顔に出るタイプらしい。
安田さんは、僕の少し困った顔と、明日香さんの少し不機嫌な顔を見比べ、小さく笑っていた。
バイトが終わり、数日後には期末試験があるため、僕たち二人はそれが終わるまで会うことはなかった。
試験が終わった日の放課後。僕が久しぶりに部室に行ってみると、明日香さんはいつもの席に座っていた。
「期末試験はどうだった」
明日香さんがそう訊くので、
「まあまあです」
僕は可もなく不可もなくと言う感じで言った。正直言って、バイトのおかげで十分な勉強時間は取れなかったけど、試験結果はそこそこのような気がしていた。
「なら、良かった。バイトのおかげで試験の成績が悪かったって言われたらどうしようかと思ってた」
明日香さんは胸をなで下ろすようなしぐさをした。
そして僕は椅子に座るなり、スマホを取り出した。
「それより天体望遠鏡を注文しましょうよ」
「そうね」
僕はスマホで天体望遠鏡が購入できるサイトを開いた。
そして明日香さんと一緒に、前に決めた望遠鏡をさがした。目当ての望遠鏡は割引キャンペーン中だった為、二人とも「ラッキー」と喜び、付属品や天体望遠鏡を入れるバックなどもセット購入した。
しかし、いろいろなものを購入したため、結果的にはバイトで稼いだお金はほとんどなくなってしまった。
「いつ届くの?」
「来週には来るみたいです」
「届け先は?」
「この学校にしておきましたよ」
「じゃあ、先生に言っておかなきゃ」
「でも、先生って・・・・・・顧問の先生もいないし」
「松下先生に言っておくから」
「え、松下先生って、養護の?」
松下先生と言うのは40歳を少し越えた養護の女性教諭だ。既婚者だとは思うが、スラッとして身長もあり、実年齢よりずいぶん若く見える。しかしどうして養護の松下先生なのだろうか?こう言うのは普通は一般教諭ではないのかと思うのだがと、少し不思議に思った。
「うん。顧問と言うわけじゃないけど、松下先生がこの同好会の担当を引き受けてくれたの。だから、届いたらすぐわたしに連絡してくれるように頼んでおくね。それと、望遠鏡とが届いたらすぐに星を見たいから、夜間の学校使用許可も取っておくわ」
ずいぶんと段取りが良いことだ。
「それじゃ星を見る計画を作りましょう」
僕はこれからの同好会の活動方針を提案しようとした。
「星を見る計画?」
「そうですよ。闇雲に夜空の星を追ったって混乱するだけです」
「そうなの?」
「そうなの・・・・・・って、そりゃそうですよ。ちょうど来週の半ばには月が満月になります。まずは月を見ましょう」
やっと部活らしい事ができるようだ。
「それから、テーマを考えましょうよ」
「テーマ?」
「はい。まず部活として認められるためには何らかの実績を残さないといけないって言ってましたよね」
「そうよ」
「そうならとりあえず秋の文化祭の時に天文同好会の活動の発表ってどうですか?」
「秋の文化祭ねぇ」
明日香さんは腕を組みながら、自分が座っている回転椅子をクルクルと回しながら言った。彼女はあまり乗る気ではないようだったが、部活として認められるためにはこれが最善の策と思われた。
「それでテーマって何にするの?」
「もう7月になるじゃないですか。七夕って言うのはどうですか?」
「七夕?」
「そう七夕の夜空」
「でも七夕ってすぐじゃだし、それだけって言うのもね」
「それなら夏休みの星空って言うのはどうですか?夏は天体観測には適しているし、星がいっぱいの夏の夜空って素敵じゃないですか」
「そうね。じゃ、それに決まりよ。具体的な事は俊太に任すわ」
彼女は回っていた椅子を止め、僕を見て言った。
「任すって・・・・・・二人でするんですよ。第一ここのトップは明日香さんなんだから」
「うそ。冗談よ。すぐムキになるんだから。でもそう言うの俊太が詳しそうだから、あなたが企画して。当然わたしも手伝うわ」
『それじゃ立場が逆じゃないか』
それにしても、天文同好会を立ち上げた割には何も計画性がないんだなと僕は思った。
次の週。
待望の天体望遠鏡が届いたという知らせがあった。
松下先生はわざわざこの部室に来てそれを知らせてくれたのだ。
「明日香さん、天体望遠鏡が事務室に届いたわよ」
松下先生は部室の入り口で、部屋の中を覗くようにして言った。
「ありがとうございます」
「それより明日香さん。調子はどう?」
「ええ。今のところは問題ありません。先生もわざわざ知らせに来てくれてありがとうございます」
明日香さんの調子は訊かなくてもいつもいいに決まっている。そんな事をわざわざ訊くのも変な挨拶だ。
すると先生は、この部屋の中にいる僕にようやく気付いたようで、まじまじと僕を見ながら、
「君が新入部員なの?」と訊いた。
「はい。筧俊太といいます」
何となくかしこまった言い方になった。
「筧君ね。明日香さんのことよろしくね」
「ええ。はい」
『明日香さんの事よろしくね』とはどういうことだろう?それはまるで保護者が使うような言葉に聞こえた。
「でも、ここは変わっていないわね。古いまんま」
先生は入り口から天井や壁を見て、懐かしそうに言った。そして先生は一点の場所に目が行ったようだった。
「まだあるのね」
小さい声だったが、それははっきりと聞こえた。
「まだあるって、なにがですか?」
すると先生は壁に飾ってある額を指さして
「ケプラーの校則」
と言った。
「ああ、これですか?でもなんのことかよくわからないんですけど、恐らく前の演劇部の人達の訓示みたいなものですかね。でも、先生ってここに来たことがあるんですか?」
僕はどうして先生がここに来たことがあるのか気になった。
すると明日香さんが、
「松下先生は高校時代演劇部に所属されていて、この学校の演劇部で、昨年度まで顧問もされていたの」
と、明日香さんは説明するように言った。
「顧問と言っても名前だけよ。ここ数年演劇部は部員もいなくて、ほとんど休部状態だったから、わたしもここに来たのは久し振りなの」
「と言うことは、先生が明日香さんにこの部室を紹介したんですか?」
「紹介と言うよりも、明日香さんが相談をしに来たから。演劇部の部室なら今は空いているわよって言っただけよ」
先生と明日香さんはどういう関係か知らないが、かなり親げだった。
すると先生は思い出したように明日香さんを見て、
「そう言えば明日香さん。期末テスト、学年で2位だったみたいね。おめでとう」
それを聞いた僕は驚いた。
「え!2位・・・・・・それって超秀才じゃないですか!」
うちの学校は1学年約250人いる。上位の数十人は毎年国公立大学に合格する。目立ってはいないがそれなりに進学校だ。学年で1位とか2位とかならば日本の最高学府だって狙える。
「この前の中間試験ではトップだったんだけどね」
明日香さんがそう言うと先生は
「今回は惜しかったわね」
それに対し明日香さんは
「今回は、直前までバイトしてたから少し勉強がおろそかになったかも。でもそれは言い訳ね。俊太はどうだったの?」
何で僕にその話を振るんだよと思った。そんな話しの後に僕の成績なんて言えるわけがない。学年では概ね上位3分の1ぐらいに入っていて、自分ではまずまずだと満足していたところだった。
「俊太も直前までバイトに付き合わせてたから、あまり良くなかったかもね。ごめんね」
「あ、いや。別に構わないですけど」
僕はとりあえずその場を取り繕うように適当に言った。それよりも僕の明日香さんを見る目が変わってしまった。この前まで望遠鏡や同好会の活動方針などについて偉そうに話していた自分が急に恥ずかしく思えた。
「あっ僕、事務室まで望遠鏡を取りに行ってきます」
何となく居心地の悪くなった僕はこの場に居づらくなり、事務室まで望遠鏡を受け取りに行くと言った。
しばらくして望遠鏡を持って帰ると、すでに先生は帰っていた。
「明日香さん。持ってきましたよ」
箱は4つあった。僕はそれらを全部抱えて持ってきた。
「ご苦労さん。意外と箱は大きいのね」
「たぶん大きいのは箱だけだと思いますよ。中はそうでもないと思います」
僕はその箱を一つずつ机の上に置き。その中で一番大きな箱から開けていった。最初の箱は鏡筒だった。
僕は箱の中からその円筒を取り出すと、
「意外とズングリしているのね」
「ええ。反射望遠鏡ですから、こんな形状になります」
明日香さんは箱の中から出てきたそれが、ドラム缶を白くして小さくしたような鏡筒だったので、少しイメージと違ったのだろう。もう一度、反射望遠鏡の特徴を実機を手にしながら説明しようと思ったがやめた。きっと明日香さんなら何も言わなくてもわかるかもしれないと思ったからだ。
僕は箱の中から次々と部品を取り出し、天体望遠鏡を組み立てていった。
するとやがて天体望遠鏡の全貌が現れた。
「天体望遠鏡みたいじゃない。すごい!」
「“みたい”じゃなくて天体望遠鏡なんですよ。これを買うために僕たち二人は一生懸命バイトしたんですからね」
やはり明日香さんはとても校内トップクラスの秀才とは思えないような発言をする。
「それじゃ、今夜さっそく月を観ようね。学校には『天体観測会』と云うことで、夜にこの部室に来ることは許可を取ったし。ただし午後9時までだけどね」
「2人でですか?」
僕がそう言うと
「2人だけじゃ嫌なの?」
明日香さんにそう言われると僕は黙ってしまった。別に明日香さんと2人っきりが嫌ではなかったが、夜にここで2人っていうのは何となく気まずい感じがした。
そんな様子を察したのか
「なに真剣に考えているのよ。松下先生も一緒よ」
「え・・・・・・」
僕は顔を上げて明日香さんを見た。
「やっぱり、わたしと2人じゃ嫌なのね」
明日香さんは少し意地悪そうな顔をして僕を見た。
「いや、そういうわけじゃなくて。夜に2人っきりで学校にいるのはどうかなって思っただけです」
などと言っている途中で、明日香さんが
「さっき、そのことを松下先生と話していたんだけど、先生はこの同好会の臨時で顧問をしてくれるって言ってくれたの。あくまで正式ではないけどね。でも、どうしても夜の観測などにはわたしたち2人って言うわけにはいかないから」
「それはよかったですね」
僕はそれを聞いて安心した。そしてスマホで今夜の月を確認した。
「そうですね。今夜はええっと・・・・・・月齢十三ですね。見た目はほぼ満月ですよ」
「ほぼ満月・・・?と言うことは完全な満月ではないということね。でもまあいいわ。じゃ今夜7時半集合ね」
その日の夜、僕たちは2人で買った望遠鏡で初めての天体観測をする事にした。
僕は集合時間より少し早めにこの部室に来た。職員室はまだ先生方が残っているのか、灯りがついていた。そして校舎から少し離れているこの部室棟の辺りは、昼間の雰囲気とは全然違っていた。季節は夏至を半月過ぎていたが、陽はまだ長く、ほの明るかった。遠くに見える山の稜線はまだはっきりと見え、その後ろはきれいなオレンジ色に染まっていた。
まだ梅雨空け宣言は出てないが、今は雲もなかった。今夜はきれいな月が見えるに違いない。
夏の蒸し暑さに草の匂いが鼻腔をくすぐり、どこからか蛙が大合唱していた。
梅雨が明けた後の、本当の夏がそこまで来ているような気がして、夏休みに思いを馳せると嬉しくなった。
僕は部室の前の広い庭に、天体望遠鏡を置いた。そして演劇部の備品としてまだあった折りたたみ椅子を3つ、部室から出して用意した。
既に十三夜の月は東の空に煌々と輝いていた。
僕は望遠鏡を月に向けてセッティングをしていた。
すると明日香さんと松下先生がやってきた。
「早かったわね」
明日香さんがそう言うと
「はい、時間が限られていますから」
と言い、同時に松下先生に
「今夜はありがとうございます。椅子も用意しておきました」
すると先生は、
「あら、気が利くのね」
と言った。
2人は椅子に座ると十三夜の月を見上げた。
そして、僕はレンズを月に向けてピントを合わせた。するとそこは、現実の世界とは違う、輝く美しい異世界が見えた。
レンズの中の月は、泡がはじけ飛んだあとのようなクレーターが無数にあり、それしか見えない無機質な表面は銀色に輝いて見えた。
僕はいつまでもその光景を見たく、レンズから目が離せないようになった。すると、
「どう?見える?」
横で月を眺めていた明日香さんは、いつまでもレンズから目を離さない僕を急かすように、そのレンズから見える世界を早く見たいようだった。
僕はその言葉に「素敵な世界が見えますよ」と言って、彼女に望遠鏡を譲った。
彼女は椅子から立ち、望遠鏡の所に2,3歩近づくと、嬉しそうに自分の右目を今まで僕が見ていたレンズに近づけた。
すると彼女もまた、
「え、なにこれ。すごい綺麗だよ!先生も見てよ」
彼女はそう言って、松下先生にレンズを譲った。
するとレンズを覗き込んだ先生も
「本当、綺麗ね」
その短い言葉だったが、少しの間はレンズから目が離せないようだった。そして、そのレンズは再び明日香さんに譲られた。
僕はそんな彼女の姿をしばらく見ていた。
普段は不機嫌そうな彼女だが、レンズを覗く今の横顔は本当に嬉しそうだった。
そしてそれを喜ぶ彼女の姿を見て、僕は不思議と嬉しくなった。
「あの、あまり明るい月をずっと見ているのはあまり目に良くないですから、これをつけて下さい」
僕は専用のアイピース付けるよう言った。
「何これ?」
明日香さんは不思議そうな顔をして言った。
「ムーングラスです」
「ムーングラス?」
「この前に説明したヤツですよ。今夜は満月ではないけれど、でもほぼ満月なのでかなり明るいです。万が一目がやられると大変なので、これがあった方が安心です」
僕はそういって、アイピースを付け替えて、彼女に再び天体望遠鏡を覗くよう言った。
「なんとなく暗い感じだけど、見やすくなったわ。クレーターなんかもはっきり見えるし」
「でしょ」
彼女はアイピースから目を外すと、僕の方を見ていった。
「いつも見ているお月さんだけど、天体望遠鏡で見る月は別世界よね。こう言うものにハマル人の気持ちがわかるわ」
「明日香さんは天体望遠鏡で月を見るのは初めてですか?」
「ううん。小さい頃に親戚の叔母さんに見せてもらった事があったけど、あの時は月がこんなに綺麗だなんて思う事がなくて・・・・・・。今夜は本当に綺麗」
明日香さんは思い出すように言った。
3人で天体望遠鏡を代わる代わる見ているすぐに時間が経ってしまった。
「もうちょっとで9時になるわよ」
松下先生が腕時計を見ながら言った。
「もうそんな時間?」
明日香さんは名残惜しそうに言った。
「そうね。時間厳守だから」
「えー。もうちょっと見ていたいんだけだな」
彼女は少しふくれっ面で言ったが、すぐに
「それじゃ今度はこれで、木星とか土星も見ようね」
と、嬉しそうに言った。
しかし、この学校は盆地に建てられているため、そんなに空が広いわけではない。更にこの部室の前の庭は林などに覆われているため、低い位置の空の視界は良くなかった。
「今の時期、土星はへびつかい座の方にあるんですよ。へびつかい座は高度が低いためこの場所からは見えません。どこか広い空が見える場所で観測できればいいんですけど。例えば学校の屋上とか?」
僕がそういうと松下先生が、
「屋上は無理よ」
「無理なんですか」
「知らないの?屋上は立ち入り禁止なの。いろいろ悪さをする生徒達がいてね。それから立ち入り禁止になっちゃったの。屋上への入り口には鍵が掛かっているのよ」
「先生が同伴していれば何とかなるんじゃないですか」
明日香さんは先生の方を見ていった。
「そうね。でも、この同好会が部活として認められていればいいけど、今の状況だと、単に生徒を夜に屋上へ連れ出すだけだから、ちょっと厳しいかもね。まあ一応学校の方には相談してみるけど」
先生も浮かない顔をして言った。
「やっぱり部活として認められないといろいろ不便ですよね」
僕がそう言うと明日香さんも頷いていた。
「その為にはいろいろ成果を上げないとね」
松下先生は僕たちを励ますように言った。
「それは、部員を5名以上と言うことですか?」
「まあ、確かにそれも必要だけど、それより何か実績を残すようにして・・・・・・そうね、例えば文化祭で成果発表をするとか」
「やっぱり成果発表ですか。そうすれば学校側も認めてくれるんですかね?」
「確実なことは言えないけど、その可能性も十分あるわ。それに成果発表をすれば興味を持ってくれる生徒もいるかも知れないしね」
「そうか。目的と計画性を持ってすれば部活として認められるかもしれないですね」
僕は何となくやる気が出てきた。
一方明日香さんの方は、僕と松下先生の話を聞いていたのかどうかも怪しく、たまにため息をつくようにして、
「星って案外簡単に見れないものね。あっさり水平線の見える海にでも行けばいいかもね」
と言った。
彼女のその言葉に僕は小さい頃、親に連れて行ってもらったロッジのことを思い出した。
「そりゃもう。土星や木星だけじゃなく、満天の星空が見えますよ。僕、小学校の頃に家族で海の近くのロッジに連れて行ってもらって、夜空を見たときにものすごく感動したんです。それから天体に興味を持つようになったんです」
僕はその時のことを思い浮かべながら、その感動を彼女に伝えようとした。すると彼女は何かを考えていた。すると
「満天の星空・・・・・・。それじゃ、今年の夏休みは海のロッジよ。決まりね」
一体なにが“決まり”なのかはわからないかったが、彼女は目を輝かせながら言った。
翌日の放課後。
蝉の鳴き声がだんだんと賑やかになってきた。
西の方では次々と梅雨明け宣言が出ているらしい。それはもうすぐ楽しい夏休みが来ることを表していた。僕の気持ちも徐々に夏休みモードになってきた。
「ねえ、昨夜の話しだけど」
僕が天文年鑑で土星と木星の位置を調べていたら、隣に座っていた明日香さんが話しかけてきた。
「昨夜の話し?」
「海の見えるロッジ行きの話し」
別に昨夜は海の見えるロッジに行こうと決めた訳ではなく、そこに行けば綺麗な星空が見えるかもしれないと言ったまでだ。
しかし、彼女の中では既にロッジに行くことが決定しているようだった。
「ねぇ、俊太。どうやって海のロッジまで行こうか?」
「いや、さすがに明日香さんと2人で行くわけにはいかないですよ」
「え、行かないの?行くって約束したじゃない」
“決まりね”と言ったのは明日香さんの独り言だし、第一僕はそんな約束はしていない。それにいくら何でも明日香さんと2人だけでロッジと言うのは無理だと思う。
「いや、別に嫌じゃないですけど、高校生2人・・・・・・それも男と女の子じゃ無理なんじゃないですか?それともまた、松下先生に同行を頼むんですか?」
「それは無理よ。だって昨夜も先生の好意で付き合ってくれたから。先生に取ってはサービス残業よ。まあ、先生はそんなことは言わないけどね」
「そうですよね。確かにそこまで頼むわけにはいかないですよね」
すると、明日香さんは
「それじゃ、大人の人がいればいいの?」
「そうですね。未成年だけじゃロッジ側としては断ると思います」
「俊太。誰かいないの?一緒に行ってくれる人」
一瞬、兄の事が頭に浮かんだが、あのバイトや合コンに忙しい兄のことだ。それはまず無理だろうと思った。
「そんなに都合のいい人いませんよ。明日香さんの方こそ誰かいないんですか?明日香さんのお兄さんとかお姉さんの友達とかでもいいですけど」
「いないわよ、わたし一人っ子だし。でも、夏休みに絶対行くからね」
「わかりました。そんな事より成果発表の計画です」
「成果発表?」
「忘れたんですか?昨日、文化祭で成果発表しようって言ってたじゃないですか」
僕は少し強く言った。
とりあえず、この同好会を部活動に昇格させなければ、できることもできない。明日香さんは何となくお気楽に考えているようだが、僕はこの活動を本気の部活と考えていた。
「ごめんごめん。そうだった」
明日香さんは半笑いで謝った。
「『そうだった』じゃないですよ。夏休み前までには具体的な事を決めなきゃ」
「俊太ってしっかりしているのね」
「って言うか、明日香さんがいいかげん過ぎるんですよ」
「そんな事ないわよ。これでもしっかり者で通っているから」
そうなことを言うのはどこのどいつだと思った。確かに頭は良いのかもしれないけど。
「じゃ、いいです。具体案はとりあえず僕が作るので、明日香さんはそれを見ながら意見を言って下さい」
「了解」
明日香さんは敬礼をするようにして言った。
早速、その日から僕は夏休みの星空について、具体的な活動向けての計画作りに入った。そもそもこういったものは最初にやるものだが、機材もないと言うことで約二ヶ月間アルバイトをしていて、天体観測とは違うことをしていたのだから仕方がない。財源確保も大事な活動の一つだ。
数日後、僕はパソコンで大まかに活動方針をまとめたものを印刷して、明日香さんに見せた。
内容は次のようなものだ。
1、今年の夏に見える土星と木星の観測
2、8月8日に起こる、部分月食の観測(連続写真など)
3、8月13日に起こる、ペルセデウス座流星群の観測
4、ケプラーの法則をわかりやすく解説する
「大体こんな感じですかね」
「なんか盛りだくさんよね」
「何か不満ですか?」
「そう言う訳じゃないけど。あの最後の『ケプラーの法則』って言うのは何?」
「あ~、これはついでです」
「ついで?」
「だってここにいつも『ケプラーの校則』っていう額があるじゃないですか。たぶん前の演劇部の人が演劇の練習のために書いたものなんだろうけど、何となく縁を感じちゃって。ちゃんとしたケプラーの法則を調べてみようかなって思ったんです。それに月蝕と流星群の観測は、その日がもしも雨とかだったら観測できないじゃないですか。その為の保険のようなものです」
そういうと明日香さんはあまり関心がなさそうに
「ふ~ん」と言った。そして
「そもそもケプラーの法則ってなんだったけ?」
確かに名前は聞いたことがあるがそれがなになのかは僕も知らない。
「だから調べるんですよ」
「わかったわ。とりあえず頑張りましょ。それじゃ、木星と土星を観測するためにも合宿をしなくちゃ」
明日香さんは真面目な観測より、旅行に行きたいようだ。
「だからロッジ。海の見えるロッジに行こうよ。夏休みの初日に。そこで観測しようよ。一緒に行ってくれる大人の人の心当たりがあるの」
「まあ、いいですけど。その大人っていうのは明日香さんの親御さんですか?」
「ううん。違うけど。俊太も知っている人だから安心して」
どんな人を連れてくるのだろうかと少し不安があった。しかしそれはきっと松下先生だろうと察しがついた。松下先生には悪いけど優しそうだし、特に気兼ねする必要もない。そして、またあの素晴らしい星空が観れるのかと思うと心が躍った。それに今度は天体望遠鏡もある。そう思うと文句はなかった。
「費用はどうします?またあのバイトをやりますか?」
「そうね。そうしよう。わたしまた頼んでおくから」
「わかりました。じゃ活動計画の中にバイトの日も入れておきますね」
「俊太は安田さんに会えてうれしいもんね」
明日香さんは皮肉っぽく言った。
「そんなじゃありません」
僕は否定するように言ったが、あながち彼女の言う事は間違っていなかった。
僕は自分の気持ちを見透かされているのかと一瞬焦った。すると、
「ねえ」
「は、はい」
「そんなに計画通り頑張らなくてもいいんじゃないの?」
彼女の少しトーンが低い声が気になった。
「どうしてですか?きちんと計画を立てて成果を出さないと、部活動としては認めてもらえませんよ」
「そりゃそうだけど。時間もあまりないし」
「時間・・・?なんの時間ですか?」
「ううん。独り言。頑張るわ。それに私はこの夏にいっぱい綺麗な星を観たいの」
「まあ、とりあえず頑張りましょう」
翌日には明日香さんがあの工場に連絡を入れてくれて、バイトの手はずをしてくれたようだった。
「バイトOKよ」
僕たちは夏休みに入ってからお盆までの間、週に1,2回まるまる一日をバイトすることにした。
そして、ロッジも明日香さんが予約を取ってくれた。たまたま運良く夏休みに入った最初の土日に、4人用のロッジが借りられたようだ。
今年の梅雨は後半に大雨に祟られ、その後の天体観測はほぼできなかった。
明日香さんにはずいぶん偉そうなことを言っていた僕だが、なんだかんだと言っても、ロッジでの合宿観測は楽しみだった。
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