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ノガイ語版『星の王子さま』の刊行を祝福する

本日のお題は、「#私のコレクション」です。以前から拙文を読んでくださっている方には自明であろう、アレの話。


1. 多言語『星の王子さま』(LPP)蒐集

当初は自分の専攻とする言語だけ所持していた『星の王子さま』(原題"Le Petit Prince, 以下本文ではLPPと略記します)、その後自分の興味関心の対象がトルコ語やアゼルバイジャン語だけでなく、テュルク諸語全体に広がっていきました。 

これらテュルク諸語に翻訳されたLPPは、言語別にみてもじつに20冊を超えています。トルコ語だけでも、キプロス方言、アンテプ(ガズィアンテプ)方言、東トラキア方言、デニズリ方言の各言語に加えて表記別にはオスマン語版、または突厥文字版というものも出版されていたりします。トルコ語以外のテュルク諸語もアゼルバイジャン語、ウズベク語、カザフ語、キルギス語…タタール語にトゥヴァ語、サハ語とユーラシア大陸を横断するかのように広く諸言語に翻訳されているというのですから、多言語LPPの「それなりの」充実ぶりがわかろうというものです。

世界の言語の数を想像すれば、現在LPPで翻訳されている言語の数は600以下ということのようですから、これでもまだ現状の総数の1/10にも満たないのかという点では上記のとおり「それなりの」という評価が妥当であろうと個人的には考えています。

研究の関心ごとがテュルク諸語の文法にある自分としては、参考資料としてぜひできるだけこれらの言語を集めたいと思うのが自然というものでしょう。

そんな自分にとって、今回北コーカサスで使用されているテュルク諸語のひとつとして知られているノガイ語版LPPの出版がいかに興奮すべき出来事であるか、きっとみなさまにもご想像いただけるのではないでしょうか(しらんけど)。

2. 吉村流のノガイ語版LPP出版祝福🎊

上記リンク先のとおりJean-Marc Probst氏のウェブサイトにあるデータベースにも早々に登録されている今回のノガイ語版LPP、私自身がノガイ語そのものに比較的最近ながら個人的に関心をもっていました。

自分の過去記事を見返すと、今から3年ほど前に最初に言及していたようです。

コーカサスの南に分布するアゼルバイジャン語が自分の研究での関心としてはもちろん最も強いのですが、そのコーカサスの北に分布するテュルク系言語としてカラチャイ・バルカル語、クムク語などはやはり気になります。

これらの言語に訳されたLPPは(もちろん)すでに入手していましたが、北コーカサスのテュルク系言語としてあとはノガイ語版LPPなどが出版されたらいいのになあ…と。そんなことが実現でもした日には、世界最速で注文してやるからな、くらいの意気込み[1]は持っていましたからね。

ですので、今年の2月でしたか、出版元であるEdition Tintenfaßからダイレクトメールが来たときは飛び上がったものでした。以下は証拠の過去記事です。

執筆当時のテンション、我ながら引きますけどね…。

で、先日も書いた通り2月のお知らせメールが届いたかと思いきや、その新刊のうちの一冊がノガイ語版だというんですからテュル活民たるわたくしとしては過剰に反応するほかに道がないわけです(わかりますね?)。それにそのメールではそれら新刊について「どうですか50ユーロ出していただけると当該本にスポンサーとしてお名前が載りますよ」とか書いてくるからこの時点でワイの人生は半ば終わったも同然となってしまったわけです。われらの愛するテュルク諸語の一つで翻訳された言語のLPP本にサポーターとして自分の名前をいれてもらえるみたいな話を聞かされてしまったら、そらもうその話に乗っかるほかに何がありましょうか(いや何もない)!

出典:先ほどのリンク先の記事

というわけでノガイ語版LPP、中表紙の裏のページにはスポンサーの一人として不肖アテクシの名前が記載されております

そう、我こそは記念すべきテュルク諸語のひとつであるノガイ語版LPPのスポンサー(のうちの一人)であるのです。28ユーロ分しかサポートしてないけど(←)!

少額でもスポンサーはスポンサーですから…吉村なりのテュルク諸語への愛情と敬意の表し方、ということにでもしておいてください。

実際ノガイ語はいわゆる「危機に瀕した言語」の一つとされており、LPPでの翻訳という形で書記言語資料の一つとして残ることには一定の意義はあるでしょう(し、あってほしいですよね)。

3. 言語と作品、ともに愛しましょう

特にここ数年、LPPにはずいぶんと執着してきました。

執着の記録は以下のようにマガジンにもしてあるのですが、

なぜこうまでしてLPPの蒐集に執着するのか、じつは自分でもよくわかっていません。

世界の言語に関心を持つとしても、その表れがLPPの蒐集である必要もないわけですからね。考えられる要因としては、LPPの1冊あたりの内容がほどよい文章量であることや文学作品そのものの魅力、入手の難易度が趣味としてやる分には実に適度である(当社比)ということなどでしょうが、実際コレクターというのは世界中にいますし、日本国内でも相当な数のコレクターがいるようですからね。[2]

ということでこの世界に存在するLPPのほんの一部しかまだ入手できていない我が身ではありますが、おそらくもう「ガチ勢」に属してしまっているということでファイナル・アンサーではないかと自負しています。御託はともかく、世界の言語とLPPに心よりの愛を示しましょう、ということで。

脚注

[1]こういうのを「意気込み」と言うのかという問題については本稿の考察の対象としない。
[2]彼らにもぜひ、「なぜ集めるのか」とぜひ聞いてみましょう。だいたい自分と同じような返答がもらえるのではないでしょうか。しらんけど。

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