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浪速は遠くなりにけり

幼少期(1985年)に阪神タイガースが日本一になった時から野球に触れるようになり、以来ずっとタイガースファンを続けております。昨年は厳しいラストだった…今年はたのんまっせぇ。

さて、幼少期からタイガースファンだったということは中学校高校時代も阪神ファンだったわけで、そうしますと「大学でトルコ語をやりたい」と思うまではどこのファンだろうが影響がないとして、では受験するのは大阪外国語大学(当時)か東京外国語大学か、という問題に直面することになるのでありました。

阪神ファンだった私はこう考えました。どちらも国立大学(当時)だし、東京は大都会でなんか怖い。し、長崎も相当離れてるからなにかと不自由になるかもしれない。その点大阪はまだ西日本だし、長崎からの距離も(東京と比べたら)近い。そしてなんといっても自分は阪神ファンであり、あの甲子園球場に行こうと思ったら行ける距離、それが大阪なのではないか、と。

そんな感じでものごとを考えていた当時の私は、早々に大阪で大学生活を送る自分を想像していたのでありました。今思えば大阪か東京かなどということについてはほぼ悩んでいない気もしますが、長崎を離れてしもたら大阪だろうが東京だろうが変わらしまへんのに、と思うのは長崎から大阪、東京なぞよりさらに遠い異国の地、トルコに住んだ経験も得た今だからでしょう。

長崎で万一のことがあったときにはできるだけ早く帰ることができるエリアに居住するにこしたことはない、という考えで、ともかく高校を卒業したら早々に大阪にある大学に進学しようと考えていたのでありました。

果たして運良く大阪のトルコ語学科に入学し、1年弱のアンカラ留学を挟んで17年ほど大阪にいたわけです。ですから、直接の知り合いの各位はよくご存知だと思うのですが、大阪に拠点があったころの私の日本語アクセントは、大阪の影響を強く受けていました。

意識的にそうしていたのです。大阪に入れば大阪に従え、と言うでしょう?(筆者注:ボケです。ツッコミ待ちですねんで)それに、大阪方言に対するあこがれのようなものも自分は間違いなく持っていたと思います。

それが、非母方言話者の悲しい運命でねえ…。
アンカラに一度引っ越し、長崎に戻って2年経った今となっては、もう自分の普段の日本語には大阪アクセント的要素がほぼなくなってしまっています。

とにかく、口に出てこない。今大阪近辺の知り合いに対面でばったり会ったとして、以前と同じ話し方で会話できる自信も今はまったくありません。

当時獲得したことばの知識は、ここnoteで不定期に書いている「あるじとしもべのダイアローグ」での「あるじ」の言い回しに使われるのみです。

その一方で、年数としてはほぼ同じ、生まれてから高校卒業まで暮らした長崎のアクセント、方言はスラスラ頭に浮かんででてくる。20年以上もブランクがあるのに、です。

「世界よ、これが母方言だ」と言わんばかりのドヤ顔で私の言語中枢の中に長崎方言のコアをなすなにかが居座っている、そんな風情すら感じる昨今なのであります。

ともかく、大阪が遠くなったなあと感じる今日この頃。

18から30代後半までの、人生でけっこう重要な時期を過ごした場所なだけあって、知り合いもまだ大阪や関西エリアに多数いるのはいるのですが、パンデミック下の昨今という事情もあり、なかなか行く機会を見つけられずにいます。

今もしかつて住んでいた北摂エリアに足を運んだら、その時の自分は何を思うのでしょうね?…何も思わないかもしれないから、それがまた怖いという気もしますし。

言語学を最初に学んだ、母校だった大阪外大も今はもうありませんからね…

言語学フェス当日を迎えて、なんとなくその言語学に最初に触れた場所でもある、大阪の話を書いてみようと思った次第で今日の記事となりました。さあ今日は言語学な1日になるといいですね。Herkese iyi eğlenceler dilerim.

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