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人はなぜ全く縁のない外国語の辞書を欲しいと思ってしまうのか

以下、オチもなにもない駄文をつらつら書いています。一切期待せずにお目通し願いたく…

昨日、現実逃避のように外出してしまい、某大手古本チェーン店にふらふらと寄ってしまった私。
「滝の観音」という、長崎屈指の心洗われる場所で心身を清めた矢先にそんな業の深いことをしてしまうというんですから、人間とは御しがたいものであります(しらんけど)。

それにしても、古本屋は怖いですよね…。

「外国語」のコーナーにでも行こうものなら、状態がよく、刊行年も最近のものが置いてあると購買意欲をそそられてしまいます。たとえそれが、テュルク諸語のどれにもかすりもしない、としても。

ポルトガル語辞典ですよ…奥さん…
ポルトガル語。ああ、なんと甘美な響き(しらんけど)…!そんなお前が、こんなところ(←)で一人たたずんでいるとは、なんと可哀想な。

いや、私はもちろんポルトガル語、今のところほぼ学習する意欲はゼロに近いんですけど。それ以前に、エスペラントもロシア語もなんもかんも宙に浮いた状態でもあるわけで(ロシア語はやろうな…おのれで書いた手前)。

それなのに、嗚呼それなのに。

ポルトガル語も自分の本棚に置いておきたいと思ってしまうのは、いったいなぜなのでしょうか?

心理学かなにかの観点で、こういう自分の心境を説明できるのかどうかわからないのですが、なんというんでしょう。

収集癖…。まあたぶんそれはそうなんでしょうけど。

自分の部屋の本棚に、できるだけいろいろな外国語の本が並んでいる状態を理想だと思っているのだろうな、と自己分析してみたくなります(まあ要するに、たぶん収集癖だね…)。

今の自分の本棚に並んでいる本のジャンルを内訳でみてみると、7割がテュルク諸語、2割がその他の外国語の語学書といった感じでしょうか(残り1割は将棋が中心の、趣味の本になると思います)。
テュルク世界に近い地域の言語の文法書や辞書も、できれば手元に持っておきたいと思ってできるだけ入手してしまうのです。そんなにお金もってないのに(ここ重要。とても重要)。

だから、アラビア語はもちろんペルシア語、クルド語の本。ほかにもロシア語はもちろん、とりあえずトルコやテュルク諸国の周辺にある国の言語の本は持っておきたいなと思ってしまいますよね。
すぐ読むわけではないにしても。

グルジア語などにいたっては、知り合いの言語学つながりの人が書いていたりする(個別言語の研究者はなんだかんだつながっていることが多いです。これ、豆知識な)ので、自分が買えば知り合いへのささやかな支援にもなるよね、とかなんとか後付けで自己正当化してしまったりとか。

グルジア語はやっぱり、1冊持っておかないとダメでしょう…

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とか言っていると、結局際限がないわけですけどね。

誰もがそうだと思いますが、毎回、書店では迷います。
目にしたその本や辞書の、自分のそのときの状況との関連性、優先順位、時間、価格(価格は気にしてはいけないという説がありますが、こちらとて6億円持ってるわけじゃないんだからね!)、本棚の空いているスペースがあったかどうか…

そういうことを考えて考えて…、あっという間に時間がすぎてしまいますわな…。

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で、昨日の話。
結局、ポルトガル語辞典をそこで買うのは諦めました。

中古価格で買うのは、なんかポルトガル語に申し訳ないなと思った(これも我ながら意味不明の感情なのですが)のと、内なる自分の声が「ポルトガル語辞書を買ってる場合か。はよ帰ってアゼルバイジャン語をしろ」と警告してきたのと。

書店というのはかくも罪深き場所、人間というものは(とりわけ、外国語にかかわりをもってしまった人間というものは!)かくも業深き存在ですよね…

ハァー…空から6億円降ってこんかな…あと本棚と書庫も空から降ってきたらぜんぶ解決するのに…


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