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オレ的「テュルク」との付き合い方:雑多な話を混ぜながら

以下、この記事はあくまで私見をそのまま書いた文章ということでご承知おきください。

私含めた「テュルク」に関心のある人間はとかく「テュルク諸語」ということで、ある意味ではとても無邪気にこれらの諸言語に向き合おうとしていることが多いよな、と最近よく思います。すなわち、トルコ語やアゼルバイジャン語、トルクメン語から中央アジアはウズベク語やキルギス語カザフ語、シベリアのほうではタタール語にバシキール語、チュヴァシュ語にアルタイ語、トゥヴァ語、サハ語…と、大きな一つの諸言語からなる言語グループというものをイメージあるいは前提として話をしがちだ、と言うべきでしょうか。

かようにしてテュルク諸語の研究者は言語的特徴としての各言語間の類似点・相違点をできる限り精密に記述していくということを当面の関心ごとの一つとするわけですが、言語学的な学術への貢献という側面とは別に、この「テュルク」という概念にはさまざまな含みや意味がもたらされることが多いという側面もあります。

とりわけ個人的にどう距離を取るべきかいつも悩まされる存在が、「汎テュルク主義」という主張です。これは上記リンクのウィキペディアの説明の通り、言語・文化・歴史的な背景を根拠としてテュルク系の諸民族の連帯、統合を目指すという主義主張なのですが、まあどの程度過激なのかは人によっても程度差があるのでそれはまあよいとして、同主義の影響を多少なりとも受けている人々というのはトルコやほかの各テュルク諸語使用地域でも実際のところかなり多いような印象があります(ここは具体的な数値があるわけではないので、「それってあなたの感想ですよね?」と言われたらまあ話は終わるわけですが)。

ところで汎テュルク主義とどの程度関連するかは自信がないのですが、それで思い出すこととして最近気になっているトピックは、テュルク語共通の表記法を追求しようとしている動きが以前からあって、その支持者が思っていた以上に多そうだなということです。「共通テュルクアルファベット」とでも訳すべきでしょうか、1990年代初めごろから現在にかけて根強い支持者がいるようで、SNSでその主張や支持者の顔が可視化されているというのが自分にとっては時にストレスになったりします。ご当地の研究者の個人的な知り合いにも相当数この汎テュルク主義に対する支持者はいますし、近い関係ながら、当地にて意見がぶつかり合ったという危ない経験をしたことも少なくありません(怖かったっすなあ)。

私自身はどう考えているかというと、その共通テュルクアルファベットに関しては発生の経緯を含めて、存在自体は興味深いなと思う一方、その動きや主張には積極的に支持をしたくないのです。

その理由の一つは、各言語の文字表記体系が現在に至るまでの歴史的・社会的経緯を捨象する方向になりそうだという不安があること、もう一つはテュルク諸語それぞれの音素体系は多様すぎて、30数文字の字母だけでは到底対応できなさそうだという予想ができることがあります。ほかにも、あえてラテン文字表記がベースになっていることそのものの中立性というか公平性というか、そういう問題も指摘できそうですし、何より私個人が諸言語は文字表記も含めてできるだけバラエティに富んでいるほうが楽しいという、いかんともしがたい嗜好(性癖?)を捨てきれないということが一番大きいかもしれません。

俗にいう、「にぎやかな」状態が自分にとっては好ましいというと一言でまとめたことになるでしょうか。『星の王子さま』の蒐集などというものを趣味にしているというのは、その最たるものでしょうからね?

上記リンク先は昨年、「本家」言語学アドヴェントカレンダーにエントリーしたときに書いた雑文です。そこでも明記したように私自身は「諸言語の類似点と相違点をできるだけ精密に書き記す」ということに関心がある、と普段から言っています。

祖語を同じくする現在での様々な諸語が共有する文法的な類似点はもちろん捨象できませんし、そもそも捨象する必要もないわけですが、一方で異なる部分もそのありのままを記述するし、そのうえでそれらの違いに興味を持つというか、「なぜ異なるのか」について掘り下げて考えていこうという姿勢をとりたいというか。

具体例や詳細な話はここでは省略しますが、もちろん「ああこの現象は興味深い」と感じる場面は数多くあります。それは、たとえばトルコ語とアゼルバイジャン語を両方対照させてみて、似ている側面に触れたときももちろんですが、一方で全く異なる文法的なふるまいを観察したときにも感じることなのです。

「似ている」と「違う」の異なるベクトルのはざまで、常にバランスを取りながら、できるだけ学術的に(つまり、言語学的に)忠実な手順を踏んで諸言語に接したいと思っています。

で。後付けの話になるかもしれませんが、だからこそ周辺言語に興味を持ち続けたいという欲求が常に自分には芽生えるのかなとも思うのです。あるいはなんというか、自分がテュルク諸語だけにしか関心がないと思われるのもシャクだなとどこかで思っているというべきでしょうか。

正直、語学としてはテュルク系の言語と同時にエスペラントはもちろんのこと、ペルシア語にもロシア語にも手を出すというのは無謀です。実際、できてないし。

それでも、あえて「やってます」と言いたいのです。

その理由は?と言われたら、もちろんそれらの言語への興味関心が一番ではあるのですが、一方で(こういうと間違いなくある筋には怒られるでしょうが)自分の関心はあくまでいろいろな言語のありようであって、興味をテュルク諸語だけに限定する気はさらさらないですよ、という意思表明ということにもなっているとよい…というか、なっていてほしいというか。

もちろん、自分のできる仕事量には限界があります(ただでさえ少ない説 is 根強い)。興味のある諸言語を全部まんべんなく勉強出来て、それを自分のものにできればいいですが、サボり癖なり飽きっぽさなりが常に邪魔をする。"My ambition is handicapped by my laziness." とはチャールズ・ブコウスキーの名言だそうですが、それなofそれな、という感じですね。

そんなわけで、結果としてトルコ語がメインの興味、アゼルバイジャン語がその次、さらにテュルク諸語…ときて、その流れで周辺言語の非テュルク諸語も…(勉強したい。今できる状態だとは言っていないことに注意)、という経緯で今ここにいる、という感じでしょうか。

あと、そういやエスペラントって人工的に創られた経緯があるらしいけど、実際どんなもんなの?…というので、これについては地域はある程度度外視ながら、欲求の赴くままに勉強しています。

なお、私自身は「汎テュルク主義を支持する言語研究者たちが非テュルク諸語に興味がない」と言っているわけではありません。実際彼ら自身、非テュルク諸語を含むポリグロットであることが圧倒的に多いだろうと思いますし。
言語系統の内外の如何を問わず、言語に対して可能な限り中立的な姿勢を取ろうとしているかどうかという点で、彼らとは目的や姿勢が違うのではないでしょうかね、という話です。

なんせ、この言語をベースに諸民族の統一を図る…という考え方自体、かなり近代になってから生まれたものだといいますし(cf. 坂本勉 (2022)『新版 トルコ民族の世界史』東京:慶應義塾大学出版会)。その意味で、言語系統が同じかどうかという観点そのものにあまり強く固執しすぎないほうがよい、という主張も十分ありえそうですが、さてどうでしょうね…?

今日はなんとも微妙な内容の雑文になってしまいました…。自分でも今一つ思考の整理ができていないような気がしますし、かなり込み入ったテーマでもあり、そもそも言及すること自体がややリスキーな内容でもありました。

とりあえず、普段何を考えながらトルコ語だーアゼルバイジャン語だータタール語だー、はたまた「テュル活」だー、と吉村は叫んでいるのか、についての一端を説明しようという試み、と思っていただけるといいかなと思います。明日は、もっとライトなテーマにしますね!

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