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フクシマからの報告 2018年晩秋その3  原発内で働いていたからこそ思う      故郷はもう原発内部と同じ         渡辺さん親子の物語(下)

前回の記事に続いて、渡辺さん親子の話を書く。今回は父親の理明(まさあき)さん(48)である。

山形県に避難して間もなく8年。この間に、渡辺さんの健康は悪化した。壮健な少年野球チームの監督だったのに、円形脱毛症になり、大量の下血で救急搬送され、2年前からは人工透析に週3回通う身になった。取材で会うたびに、病気や故障が増えていった。顔色も悪くなった。避難直後の元気な姿を覚えている私には、痛々しい姿に見えた。

それが放射能の影響だとか、そうでないとか、そういう話をするつもりはない。ある日突然、引っ越す予定もなかったのに故郷から着の身着のままで追い出され、知り合いが一人もいない、選んだわけでもない土地でゼロから生活をスタートさせる。たとえ放射能の影響がゼロであっても、そのストレスだけでも、健康をボロボロにするには十分である。

これは渡辺さんだけでなく、たくさんの避難者を取材してきた私は事実として理解できる。吐血して救急車で運ばれた。体や精神が持たない。安全には納得しない。が、もう限界だ。そうして故郷に戻った避難者を何人も知っているからだ。

渡辺さんが、それほど過酷な状況になっても、故郷の南相馬市に帰らない決心を変えないのは、ひとえに成長期の子どもたちを被曝から守りたい、という一心である。その一人が、前回の本欄で書いた長男の和磨君(20)である。

今回は、そんな理明さんの話を聞いてみようと思う。

渡辺さんに限らず、私は福島第一原発事故の長期的な取材として「ずっと同じ人の話を聞き続ける」という作業をしている。そうすることによって、同じ人の考え、行動や経済状態、健康状態の変化がわかる。それがこの原発事故という30年、50年と長期の影響を社会に与える事件を歴史に記録する作業として重要だと考えている。言葉を変えると、一種の「定点観測」である。もちろん、長く接するほうが、相手をより深く理解できる、相手との信頼関係が蓄積されるという側面もある。

いずれにせよ「記事のたびに取材相手を新しく変える」という新聞やテレビの手法を、私は取らない。新聞テレビは2〜3年で担当記者が代わるので、記者が代わると取材対象を新たに見つけることも記者の業績だと組織内では考えられている。それは原発事故のように長期的な報道では有効性が劣ると私は考えている。

そうした渡辺さん一家の避難生活の話は、折に触れて記事にしてきた。ご覧いただければ、一家の苦闘の歴史がわかると思う。

2011年11月17日「野球を教えられなくなった少年野球の監督」(JBPress)
2013年9月20日「円形脱毛症になっても故郷に戻らない理由」(同)
2014年5月1日「避難先で良縁に恵まれた長女」(同)
2015年8月16日「故郷はもう原発内と同じ 下血し入院しても戻らない」

こうした内容は拙著「原発難民」(PHP新書)にもまとめてある。詳しくはご一読をお願いしたい。

一部を抜粋してみよう。

「私はモハ、故郷を心から愛してます。何より故郷が大事だ」
 福島の人は内容を強調するのに「もう、はあ」という間投詞をよく使う。「まったくもう」くらいの意味だ。それが短縮されて「モハ」と聞こえる。原発事故で避難を強いられることを憤る渡辺さんの言葉も「モハ」が頻出した。
「モハ、なのに、子供と故郷に住めなくなるなんて、モハ、これはモハ、最大の屈辱なんです」
 渡辺さんは電気工事会社を経営するかたわら、小中学生のバレーボールや野球チームのコーチとして地域とかかわってきた。

 小学校の学区をまたいで子供たちと親しくなる。親たちとも親しくなる。そんな仲間だけではなく、小学校からの同級生や先輩・後輩。仕事の仲間。いつも夜は誰かが家に遊びに来ては、ワイワイと飲み食いする。また誰かの家に遊びに行く。自分の子供もよその家の子供も区別なく、ひとつの大きな家族のようだった。仕事、コーチ、試合の付き添いと、休みもほとんどなかった。が、毎日が楽しくて、疲れることがなかった。

 南相馬は自然豊かな土地だった。目の前は太平洋である。浜で泳ぐ。ヒラメを釣る。秋には川で遡上するサケが釣れた。そして車で30分も走れば緑深い阿武隈山地だ。山歩きから渓流釣り、山菜狩りまで楽しめた。海や山に、友達家族と連れ立ってバーベキューに行くことも楽しみだった。

 そんな幸せな毎日は、2011年3月、突然終わってしまった。12日、震災の翌日、1号機が水素爆発した。

「県外に逃げろ。次にどの原子炉が爆発してもおかしくない」

 原発に勤める親戚に電話すると、そう言われた。午後6時、自家用車に乗って一家で南相馬市を脱出した。とはいえ、避難所の指定などない。峠を越えて福島市に出て、さらにまた山越えして山形県東根市の体育館にたどり着いた。

(2015年8月26日付note.mu)

 そして7年9ヶ月。渡辺さんは南相馬に戻らないことを選択した。ずっと山形県に住んでいる。南相馬市で住んでいた家は原発から約25キロ。20キロラインの内側=強制避難の対象地域ではない。いわゆる「自主避難者」である。

 これまで何度も私が述べているように、風に乗って運ばれた放射性物質は、東京の官僚がコンパスで引いた20キロの線など関係がない。外側にも飛び散っている。円で避難を区別する合理的な根拠はない。20キロという距離にも、合理的な根拠は何もない(拙著『フクシマ2048』ビジネス社)。20キロラインの外側でも、飯舘村のように全村強制避難になった場所がいくつもある。

 ところが、20キロラインの内側と外側では、政府・東電が決める損害賠償の手厚さが大きく違う。「20キロ以内は政府が強制的に退去させるので、家や収入の損害を補う。しかし外側は本人の意思で避難するのだからしない」という機械的な振り分けである。

 なぜ渡辺さんは「自主避難」という補償の薄い立場なのに、困難を押して南相馬市に帰らないことを選んだのか。

 そこには渡辺さんが福島第一、第二原発の中で仕事をしていたという経歴が大きく影響している。経営していた電設工事の会社は、原発内部の工事を引き受けることがたびたびあった。そのたびに原発内の「放射線管理区域」に入った。放射線防護の講習を受けた。「放射線管理者」の資格を取るために、さらに放射線について勉強した。

 その時の経験と知識からすると、現在の南相馬市はかつての原発の中と同じレベルの汚染だと渡辺さんには思える。

 そんな汚染から子供を守りたい。せめて自分の子供だけでも影響を最小限にしたい。そんな思いがある。

福島県の統計によると、2018年11月現在、渡辺さん一家のような避難者は4万3214人(県内1万54人、県外3万3147人)いることになっている。

しかし、この数字には、実態より数字が少なく出るようなトリックが何重にもかかっていることは何度か指摘した。

*避難直後に入居した「仮設住宅」または「みなし仮設」(アパートなど賃貸住宅)から一度でも引っ越すと、避難者の統計から外す。
*その「仮設住宅」または「みなし仮設」から一度でも引っ越すと、家賃補助を打ち切る。
*しかし、県外から福島県内に戻ってくるなら、補助を続ける。

これに追加して、政府は東京オリンピックが開かれる2020年3月にタイミングを合わせて、次のような政策を実施することを発表している。

*JR常磐線(東京都ー宮城県)のうち、今も不通になっている福島第一原発直近の部分を開通させる。
*仮設住宅を全部廃止する。
*福島県から聖火リレーを出発させる。

聖火リレーを福島から出発させる意図は、東京五輪を「復興五輪」として打ち出すためであることは、五輪組織委員会が認めている(2018年7月12日付朝日新聞)。

一方、3つの原子炉がメルトダウンしたままの福島第一原発内部の現状は、何も変わらない。東日本大震災が発生した当日夜に発令された原子力緊急事態宣言は、この記事を書いている2018年12月29日現在、解除されていない。つまり「福島第一原発の危険な状態は2011年3月11日夜から変化がありません」と同じ政府が言っている。

当たり前だが、仮設住宅を全廃しようと、常磐線を開通させようと、聖火ランナーを走らせようと、福島第一原発の現状は1ミリも変化しない。ばらまかれた放射性物質は1マイクロシーベルトも減らない。現実が変化しないのだから、これらの政策はすべて「印象操作」「認識形成」にすぎない。私はそう考えている。

(カバー写真は山形市の避難先住宅での渡辺さん一家)


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