本音と建前/制度と働き/事実と歪曲(意図的な?)

この前、都知事選挙が終わりました。僕は毎回必ず選挙に行きます。しかし政治的な信念があるわけではない。ただその権利は使わんといけんなっておう思いはありますので、一票を投じるわけなのですが。その姿勢が、僕ら世代に共通する認識なのではないかなって思ってます。

1989年は昭和→平成に変わったタイミング。1月7日で昭和は終わり、小渕さんの発表で平成がスタートした。そんな年に生まれた僕らの事を考えてみたい。親たちが過ごしてきたバブルの頃、まだ小さかった僕らはぬくぬくと毎日を過ごしていました。

スーファミやってたら64が出て、スマブラが流行った頃。プレステもなんならセガサターンも。ポケモンカードと遊戯王カード、ちょっと背伸びしてマジックザギャザリングで遊んだ。コロコロ読んで、K1ダイナマイトとか、グランダー武蔵、ビーダマン、ハイパーヨーヨー、そして何よりポケモンにハマった。

小さかった僕たちは、多分バブルが終わった時期に気付くことは無かった。キングギドラ、キックとリップ、HIPHOPが流行った中学生。オレンジレンジ、ダンスパフォーマンスグループ、K-POPとか色んな新しいことが入ってきた。バンプやゴイステ、ロックも聴いた。高校生になって、世界はあんまり変わらなかったけど、ケータイを持ってみんなと好きな時間にコミュニケーションが取れるようになった。

そうして大学生の頃には、あんまり世の中の仕組みについて考えず、面白いことを敏感に感じるようになった。そこで与えられた選挙権。よく分からなかった。なんというか、変わった実感も無くて変わらせることが出来る実感も無くて。なんとなく大人になってしまった。銀杏BOYZの歌詞を思いだします。

「なんとなく僕たちは大人になるんだ」

「いつまでたってもドキドキしてたいんだ」

そんな思いを秘めたまま、大人になった。簡単に言うと、「選挙で何かが変わる」とか思えないまま生きてきたんですね。なんとなく生きてても大人になったし、働いてるし。僕の中では、与えられた権利を実行すればいいんだろなって思っていたから、とりあえず選挙に行ってた。投じても何も変わらないって思いながら。

現代文で『「である」ことと『すること』」を教えています。その中で、自分が「有権者である」ことに安住しているんではないか?と言う疑問を感じました。本音は変わってほしい。もっと効率的でみんな(先生たち、学校関係者の人たち、生徒たち)が良い働き方を求めてる。だけど変わらない。そんな状態に甘んじていた。建て前は「選挙に行ってる」からね。でも、それでいいの?

コロナで表面化したのは、僕らに与えられる情報を鵜呑みにするほど怖いことはないってこと。そして、報じられる文言も映像も明らかに僕らを舐めてる。逆に言うと舐められてることです。誰が見ても分かるでしょって。

偏ってるって分かっててもどうしようもない状態。それにイライラしてる毎日。でも、それを創り上げたのは自分たちなんだ。例えば、感染者数が増えてる。でも、PCR検査数は増えてる。それは増えるでしょう。感染経路不明者が多い。でも、新宿区では見舞金10万円が出る。だったら軽症者かつ不明者が増えるのは当たり前なのでは?

もっとよく出来るはず。全てに納得できなくても、経緯が分かっていれば理解は出来る。そこを誤魔化されてる。自己判断は必要だけど不安です。共通認識は必要。分からなければメディアに飛びつきますよ。そりゃ仕方ない。仕事も家庭も忙しくて、正しい判断について考える時間もあんまりないんだから。

でも、甘んじちゃいけない。平成元年は平成のビッグブラザー&シスターなんです。先の時代を一から生きてきたものとして、自分らが引っ張っていきたい。というか、その責任をやっぱりどっかで考えていくべき。

大それたことを言える人でも全然ないけど。でもなんかやれることをやりたいなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?