好きのかたち
いまさっき気付いた私の好きについての記録
妹と二人暮らしの家で昨日から私はひとり。寝っ転がってスマホで小説読んでたら、突然コーヒーが飲みたくて、お湯沸かさなきゃって思ってたの。
何かを好きになるって、それ自体すべてを好きだと思えないといけない、私にはいわば0か100みたいな考え方をしなきゃって思うところがある。
「これが好きなんやな」って私の好きなものを知るたびに、見つけたらそう言ってたお父さん。あれは私との共通言語を少しでも多くしようとする気持ちからなのかな?いや、何の意味もないのかも。
自分の好きに責任を持たなきゃ
そうやって、好きなものは突き詰めなきゃいけないものって思い始めてしまうようになったのはいつからだっただろう。
本当は自分の好きは断片的なもので全然良くてって、知っとるってそんなん。
私のコーヒーへの気持ちが時間をかけてそれを理解させた。
同好会に入って、活動内容といえば珈琲の豆の種類を紹介してもらって目の前で挽いてもらって、分量を量ってフィルターをセットして、お湯の温度、注ぎ方、蒸らす時間、落とす量とかを意識しながら淹れるの。
私の好きとなんか違うとぼんやり思ったりもしたけど団体に所属すること自体に重きを置いていたのかもしれない。入会することで自分は本当に珈琲を好きだと思いこむみたいな、周囲に示すみたいな、保証するみたいな。
馬鹿らしいな。人と関わる手段に置きかえてしまっていたの。
違うんだよな、私が好きなのは珈琲を入れる時間でも、器具でもなくて、ただおいしいコーヒーが飲みたいっていう気持ちでコーヒーを本当に適当に淹れてみたり、アレンジしたり、カフェでにおいを嗅いだ時とかみたいなことなんだよな。
好きのかたちなんてほんとひとそれぞれで、誰かと好きのかたちそれそのものがリンクすることなんてないんだよな。誰かと同じを嫌う私は同時に誰かと同じに依存してる。矛盾しかない恥ずかしい。
私にとっては一貫したものを持つのは難しいんだから。
卑下しそうだからこうまとめようね、
優しい私がなにより大好き。
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