『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだので書きたいと思った。

村上春樹の本で読んだことがあるのは『ダンス・ダンス・ダンス』上下2冊だけだった。(しかも登場する少女がラブプラスの凛子のモデルになったという噂を聞いて買った)

面白かったので何かまた読もうと思っていたまま数年経っていたところ、なぜか目についた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を購入してみた。

村上春樹ならノルウェイの森や1Q84などの方がメジャーというか、よく知られているので「どんな話かな?」と気になる余地があったはずだが、読んでみたのはこれだった。

思うに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』というタイトルが、これから読むために本を探していた自分にパッとわかりやすかったのだろう。ノルウェイの森というと森と寒地のイメージだがこれなら多崎つくるという人が何かを探していくように話が展開するのかな?と物語が手繰り寄せやすかったから目についたんじゃないかと思う。

そんなわけで読み終えたのだが、もうページに文章はないのに本の世界から出る気がなかっので、同じように読んだ人のブログで何を感じたか検索してみた。
当然のことながら特に書かれているのは「シロを殺した犯人は?」や「灰田について」などだった。(アカやアオについては別に書くこともないのか取り上げられているのを見なかったが、それだけ灰田は謎の残る描かれ方をされていたのはそうだ)

それで自分も気になって考えてみたが、まず普通のミステリーと同じ読み方をするものではないんじゃないかと思った。

この小説では、つくる(主人公)はともかく、それ以外のキャラクターは個として描かれているというよりは、何らかの役割を担わされた存在、物語中の機能として配置されていると自分は感じた。

例えば沙羅が「真実を知るべきだ」とある程度4人の事を調査し、フィンランド行きの手配も手早く済ませるのは自分には強引な感じがした。

物語の展開の都合によって描写が杜撰になったというわけでもなく、ただつくるが自分の問題に向き合うことを決め、その瞬間16年前から止まっていたものがどんどん流れ始めたに伴い、それまで考えもしなかった「ここからはここ行って、そこ行けばいいよ」というこれからするべき事、通るべき方角(この先に何かがあるというような)がとんとん拍子に進むということだ。
これに関してつくるが悩む描写はないのは、部外者であるはずの沙羅が全部整えておいたからである。

つくるのタスクは明白になり、ただシロを除く3人にそれぞれ会いに行くことになる。

また沙羅が50代くらいの男性と歩いていたのをつくるが目撃してしまうシーンも、バランスを取るような目的の感じがした。

要はこんなに色々(都合よく)整えてくれた女性と、最後つくるの問題が解決して結ばれるというのでは、つくるの抱えていた問題やそこからの世界観とはずれがあるというか、作り物のようになってしまうために「そういうことじゃないんですよ」と入ったシーンに感じるのだが、これも沙羅が普通の人間として問題のあるつくるに決めきれないよね、二股もするよねというよりはつくるの感じる世界のために(自分は結局幸せになれないのかもしれない)役割として沙羅は50代男性と表参道を通りすぎていったように思う。

要は現実世界では強引な展開と言えるだろうが、この物語はつくるが向き合うべきものに向き合うための話であり、登場人物はそのために皆適切な位置に配置されている機能のような存在であるため、 普通のミステリーのように読むのではなく書かれているものが何を表しているのか感じる必要があるということだ。

そして適切な配置はよい結果を実際に生み出した。
つくるは沙羅が答えを出す日を前にし、心を静め眠り、物語は終わる。


シロがなぜ悲惨な最期を遂げたかということに関して書きたい。
まずシロがつくるにレイプされたと言いグループが崩壊に至ったわけだが、これは全く根拠のない言いがかりでは無いということだ。
だがつくるが実際にシロのマンションを訪れ強姦したという事は完全に無いと思っている。
じゃあ何だというと、つくるが高校時代、グループの中でシロのことを(クロもだけど)意識していたということが根拠になる。
「普通のことだし本気で恋していたわけでもないじゃん」となるが、つくるはグループの中でアカとアオのことは性的に意識していない。
「それは当然だろ」と言われそうだが、あるのとないのとでは全く違うのである。

人の目線というのは大抵は人を自由にするよりも不自由にする。シロは奇跡のようなグループ、ずっと味わえたら良いようなグループの中でルート(可能性)を目視せざるをえなくなる。つまりシロとつくるに性的に何らかの繋がりができるルートだ(実際の行為を恐れたというよりは、曖昧なものがいつか何らかの結果として現れるのに耐えられないという感じ)。それはつくるとアカ、アオの間には出来ないルートだ。

じゃあアカ、アオもシロに性的な目線があったのは同じじゃないのか?ということだが(アカは同性寄りのバイセクシャルなので分からないが)、村上春樹の小説では主人公と孤独なイケメン(灰田や『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君など)以外の男性はとるに足らないような描かれ方をするというか、「世の男ってこんなんだよね」という感じで描かれる。
実際レクサス売りのアオやセミナーで儲けているアカは村上春樹の主人公ならしないような仕事の俗物の描かれ方をしていた。

つまり村上春樹の小説の登場人物であるシロにとって、アカとアオがその他大勢の男と同じように性的な意識を向けてくるのと、つくるがそうするのとでは無意識的に違ったのだと思う。
より閉塞感、どうしようもない事だけど感じる抑圧が生じた。だからそれを生じさせた者が槍玉に上がった。

もしこのグループがつくるの代わりに灰田で構成されていたとしたら、シロがレイプされたと言う時に挙げられるのはアカでもアオでもなく灰田ではないかと思う。(その場合なら前提としてグループも出来ない気がするが)


なぜつくるだったのかは書いたが、肝心のシロがなぜレイプされたと話し、グループを崩壊に至らしめたかについて、思うことを書こうと思う。

時系列でいうと、シロがそう主張したのは大学2年生の時である。つくるはグループで1人だけ上京していたのでつくるにとっては全く突然の事だった。
だが残った4人の地元では何かが起こっていたらしい。つくるはそれまで(16年後までも)考えもしなかったことである。
シロは「精神的に切羽詰まったところまできていた。」というのだ。

フィンランドまで行きクロにより、
「シロの言い分を信じてつくるを弁護しなかったのは、私がシロを護らなくてはならなかったからだ。シロは精神的に深刻な問題を抱えていた。はっきり言って、切羽詰まったところまできていた。誰かがあの子を全面的に保護しなくてはならなかった」
と話される。
シロがレイプされたのは嘘じゃなかった。そして妊娠していた。
「一緒に産婦人科に行ったから。もちろんあの子のお父さんのところじゃなく」とクロは話すのだが、ここに引っかかりを感じる。

グループの5人は名古屋の進学校に通い、父親は大企業か専門職(大学教授など)に就いて家庭は裕福だったとあるのだが…

この物語で、グループはシロが主張しなかった場合、疎遠になることはあっても崩壊はしなかっただろう。そしてシロの主張はレイプされたということであり、実際に妊娠していた。
そういった物語で、シロの父親を産婦人科医にするのは何の意図もないことではないのではないか。

ここでそれまで考えもされていなかったシロと父親の関係が浮かび上がるのではないか。
シロはそもそも、その事件の前から、「昔から一貫して性的なものごとに対する嫌悪感をとても強く持っていた。むしろ恐怖心と言ってもいいかもしれない」という。

具体的なことは書かれていないが、シロは父親からなんの性的なストレスも受けずに育ったとは言えないのではないだろうか。

それはシロから始めたものではないだろう。シロはただ生きているだけでそういったものに曝され、しかも人に言うこともできるわけもないという人生を生きることになった。

だがつくるが考えもしなかったように、シロはそれを気取らせることもなく高校1年の時から始まったグループで奇跡みたいな調和のもと過ごす。
しかし卒業とともにつくるが去り、音楽大学に入ったシロは自分の設定した水準に到達できるほどの才能を具えていなかった。真面目で内向的なシロはプレッシャーをますます感じるようになり妙なところが出てきたという。

シロがもし父親に性的なことをされていたとしたら、その支配があるゆえに自分の家すら完全に自分の場所、安心できる場所ではなかったということだ。
土台がないということだが、シロは最初の時点でおかしくはなっていない。つくるも気づかなかったように。
ただ先ほど書いたようにグループでもそういった自分から始めたものではないものに抑圧されることになり、しかもそのつくるは1人上京(=自由、解放に捉えられる)、それまで挫折もなかったピアノでも行き止まった。

そして、大学2年の時、日常的にか、誰からかはわからないがレイプされ、妊娠したときに、全てが起こったのではないか。



自分が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関して思ったことを書いてみました。
ありがとうございます!


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