認め合うということ

私は発達障害を持った人間である。久しぶりにそれを認知する機会があった。発達障害とは、出来ることと出来ないことの差異が大きい脳みそを持った人間のことを言う。私の解釈だと、そんな感じだ。

人間は他人について、どのような尺度で認知しているのだろうか。
関わりたくない人間とも、関わりたいのに上手く関われない人間とも、同種として距離感を適切に保ちながら、私は息を続けることが出来るだろうか。

関わりたくない人間。この言葉は多分、醜い。
表現するべきでない。それは事実だろう。
要するに、人間と暮らしていく上で不利益になりかねない。

腹の内を隠して生きるのが達者な人間はコミュニケーション強者かと言われれば、そうでもない気がした。
我慢は続かないものだ。鬱憤は膿みたいに膨らんでいく。
内から外へ迫っていく。圧迫されていく。
必要なことは、他人の人格形成について適当に理解をしておくことだ。

幅を持たせること。これは思考に余裕を持たせるために必要だ。
日によっても、人間の立ち振る舞いなんて変わるものだ。
だから、頭の中に留めておくべきは、相手にも見えないストレスが存在しているということか。

だとしたら、可能性が膨らみ過ぎてつらいな。
適度な思考領域を見つけるべきだ。

適度な距離感というものが、私には未だにわからない。
何を以って人間は他人を信用するのか、はしゃぐような態度を示すのか。
私には未だに謎である。

説明が必要だ。しかし、人間はいつだって説明しない。不思議だ。
言語があるのに、言語に頼らないで人間を図っている。

計略なのか?人間の考えていることは意味不明だ。

逆に、信用できる人間の性質を考えてみようか。

私が信頼できる人間。
それは、私に対して時間と言葉と思考を示してくれる存在だ。

全てを委ねることはもちろん出来ないけれど、少し、信頼してみたいなって人は案外側にいるものだ。

僕は人間が下手くそだな。

他人に対して愛着をもっと。そういう生き方を望んでいる。
多分、高望みしている。理想を語りすぎだ。
現実とのバランスが取れない。

全ての穢れを払うことなど決して出来ないのだ。
私は全てを理解しようとしすぎているのかもしれない。
生きていることを感じる天才だ。苦痛で仕方ないな。

フォーカスを合わせる練習をしようか。
もっと雑に、適合して。否定はしないで。

私は暴力に晒されすぎた。
痛みに極度に敏感だ。

生きていることを認めてあらゆる生命が濁し合って生きる道を探したい。
もっと肯定的な魂、やってこい。

今日もnoteを読んでくださってありがとうございます。
また次回、お会いできればと思います。
それでは、おやすみなさい。よい夢を。

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