自殺をしてはいけない理由ってなんだろうって話

私は、自殺肯定派でも否定派でもない。
していいとも言えないし、してはいけないとも言えない。そんな立場。一応言っておくが、私が今自殺を考えているわけではないので、心配無用だ。
強いて言うなら、消極的否定派だ。

私が自殺を積極的に肯定できない理由を簡単に言えば、自殺を考えるような状況では、正常な判断力が奪われていると考えているからだ。
どうしても辛くて苦しくて精神が不健康になると、視野が狭くなり自分を追い込む考え方をしてしまったり、選べるはずの選択肢が見えなくなってしまう。だから、その状況で重大な命の選択をするのは、とりあえず一時保留した方がいい、と思う。

そして、私が自殺を積極的に否定できない理由は、大きく分けて2つある。
まず、「命は本人のもの」と考えている。
どんな生き方をするか、どんな考え方をするか、どんな暮らし方をするか、どんな形の幸せを掴むか、それは本人が決める。
ならば、命の行方も自分で決めていいのではないかと思う。私は、安楽死についても否定派でも肯定派でもないが、肯定する理由は同じだ。

もう一つの理由。
「自殺をしてはいけない理由」としてあげられる理由に、私は納得しきれない。
例えば、悲しむ人がいる、親が悲しむ、という感情論がある。では、悲しむ人がいなかったら、親がいなかったら、あるいは親に死を望まれたら。それはどうだろう。
人の感情のために生きなければならないのなら、人の感情のために死ななければならない状況も否定できないのではないか。

親の感情のために本人にとって不本意な選択を強いる、と言い換えればわかりやすいだろう。本人が望まないのに強いられる、という意味では、ヤングケアラーや教育虐待と根本は同じなのではないか。
子の人生は親のためにあるのではない。子の人生は本人のものだ。誰かの感情のために不本意な選択をすることは健康的なことではない。

私が先にあげた、判断力が落ちている時は重大な決断は避けるという理由も、判断力が落ちていない時に決断する人にとっては何の説得力もない。
私は、自殺を否定する理由も肯定する理由も、全て反論可能なのではないかと思う。
私個人が反論できなかったとしても、反論自体はいくらでも出てくるのではないかと思う。

「あなたが死にたいと言った今日は、昨日死んだ人達が死ぬほど生きたかった明日」と言ったところで、昨日死んだ人と今死にたい自分は当然別人だ。見ず知らずの他人のことを持ち出されて思いとどまる人は、本気で自殺を考えたりしないのではないか。
もし私が本気で自殺を考えていたら「なら私の命を今日死ぬ人に差し上げますよ」と言うだろう。出来るものならそうしたいと本気で思うのではないか。

「最悪の場合選べる手段がある」という最後の逃げ道を塞ぐことにも、疑問を感じてしまう。
人生が常に順風であれば自殺をする人はいないだろう。自分ではどうしようもない逆風の中で生き続けて人にも自分にも絶望し、人にも自分にも救いを求められない状況下で、最悪の場合には選べる道があると思えば、とりあえず今日一日だけは死なずにいようと思える人もいるのではないか。
「自殺は絶対にしてはいけない」という考え方は人生が常にとはいかなくても、それなりの順風に吹かれた経験のある人の考え方ではないか。
順風を経験したことのない人にとってみたら、ただの強者の理論でしかないのではないかと思う。

とは言え、私は自殺肯定派でも推奨派でもない。
最初にも書いたが、消極的否定派だ。たとえ理屈で全ての否定的な意見を反論できたとしても、自殺してはいけない理由が一つもなかったとしても、それでも生きてほしい。ただの感情論だ。
もし、私の大切な人が自殺を考えていたら、どんな感情でも理屈でもなんでも持ち出して必死に説得するだろう。駄々を捏ねる子どものように絶対に嫌だと言い続けるだろう。たとえ相手にとっては不本意だとしても。

私はもし今死にたい人に生きたいと思わせてあげることはできない。「とりあえず明日のことは放っておいて、今日だけは死ぬのはやめておきませんか?」せいぜい頑張ってこの程度だろう。
無力だ。

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