軸を作る:対価を求めずに、感じたことを素直に形にする
軸を作る、ということで私が思ったことをつらつらと書こうと思います。
私は、軸を作る、価値観を作る、ようなことを掲げて進めてきました。
が、どうやら、そのものを狙う、ということが私には合っていないということを感じてきました。
1. マインドフルネス瞑想の事前説明会を通じた気づき
昨日、マインドフルネス瞑想のレッスンを受けようと思って、事前説明会を受けました。
マインドフルネス、マインドフルネス瞑想については以下を参照してください。
マインドフルネス瞑想で期待できることは、
私たちは、今この瞬間を生きているようでいて、実は過去や未来のことを考えて、「心ここにあらず」の状態が多くの時間を占めています。特に、過去の失敗や未来の不安といったネガティブなことほど、考えを占める時間が長くなりがちです。つまり、自分で不安やストレスを増幅させてしまっているのです。こうした心ここにあらずの状態から抜けだし、心を"今"に向けた状態を「マインドフルネス」といいます。
瞑想の効果としては、
・集中力、生産性の向上
・不眠の解消、睡眠の質の向上
・うつ病や不安の緩和
・ストレスの軽減
・リラックス
などがあります。
そしてマインドフルネスを深める事は、実は、これから深めていこうと思っているメンタライジングと深く関係してます。そのため、マインドフルネス瞑想を通じて、メンタライジング力を向上させることを体感していきたかった、というのが本音でした。
2. 瞑想だけを切り取ることの是非
マインドフルネスの本質的な意味を考えずに、効果の部分のみに焦点をあて、追求することはよいのでしょうか?
次の記述(記事)をみていきましょう。
仏教の立場から言うと、サティはもっと豊かな内容を持っている。本来のサティを知るには瞑想だけでなく他のスキルも必要になる。仏教の世界から一般化されるときに取捨選択が行われ、大事なエッセンスが落とされてしまったようだ。たとえていうと、サティはいろいろな栄養分が入った玄米であり、西洋のマインドフルネスはビタミン剤のようなもので、玄米に含まれていたオーガニックな働きをするいろいろな栄養素が抜け落ちている。私は僧侶として、東洋のサティを通じてマインドフルネスがもっと豊かになるようサポートしたいと思っている。
パーリ語でサティ(巴: sati、梵: smṛti:スムリティ)とは、特定の物事を心に(常に)留めておくことである。日本語では念(ねん)や、気づき、英語ではマインドフルネス(mindfulness)などと表現する。
何か得られるから、マインドフルネスをやります。
という行為そのものがマインドフルネスの考え方から遠ざかるのではないか?
ただ、マインドフルネス瞑想が、鬱傾向、ネガティブな思考をしがちな人にとって効果的な手法であることは実証されています。治療方法としてはより積極的に用いられべき方法だと思います。
3. マインドフルネスは瞑想をするだけではない。
曹洞宗僧侶の藤田一照氏の記述をもう一度抜き出します。
サティはいろいろな栄養分が入った玄米であり、西洋のマインドフルネスはビタミン剤のようなもので、玄米に含まれていたオーガニックな働きをするいろいろな栄養素が抜け落ちている。
ビタミン剤と玄米。
つまり、その部分だけを抜き出したビタミン剤としてのマインドフルネスでよいのか?
マインドフルネスとともに必要なのは、他者、世界を愛すること。ある意味で同化していく力、なのではないか?
そうした意識があって初めてメンタライジングと繋がってくるのではないでしょうか。
なぜ、宗教において、経典が存在し、説法の時間があるのか?
そこは相手を慈しむ心がけ、意識付けが必要であり、瞑想(お祈り)だけではカバーされないのだと思います。
宗教に入信する必要ないです。ただ、元々のそうした発想から来ているということを意識するだけで見方が変わるのではないでしょうか?
ただ、どういった形で入るもの良いとも思います。瞑想をしていく中で、そうしたマインドフルネスの玄米部分に気づいていく、という人も多くいると思います。それも一つの形かと。
我執。一つのやり方に固執する必要はないと思います。それぞれの立場であったやり方を模索していくのが何より大事ですね。
ただ、何かの効果、成果を期待して行うということ、そのものが見返りを求める行為であるため、雑念に繋がるのではないでしょうか。始めるとしても気楽に始めてみた方がいいですね。楽しみながら。私も楽しんでます。
慈しみの心を持って瞑想を行い、自分が感じた気持ちを大事に育てていきたいですね(瞑想始めて5日目の感想です)。自分の変化を楽しみながら。
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