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祖母の思い出、「へぇ長生きしただ」。

「デイ(サービス)はどぅだぃね?」と長野県方言で僕が尋ねると、祖母は決まって「へぇ、年寄りしかいねぇなぁ……。わけぇ(若い)人はいないわねぇ……」と答えた。

「ほうかぁ……。まぁ婆ちゃんも長生きしましょ」と僕が続けると「へぇ長生きしただ……あんまり長生きしてもなぁ。わしももう年寄りだで」と祖母ははにかんだ。

これは僕が中学生の頃の祖母とのやり取りの思い出だ。祖母は当時70代中盤で認知症の症状が進みつつあった。お医者さんからは「ご家族がなるべく話しかけて上げて下さい」と言われていたけれど。

祖母は元来、口数が少ない。

冬場はずっとコタツで座ってTVを見ている祖母と僕が話す話題といえば「天気の話」か「デイサービスで何を食べたか」か「野球の巨人戦」くらい。春先から秋口にかけて祖母は畑には出ていたから「今年の植物の育ち」も軽く話題にはできる。あとは時折「昔のこと」を聞くくらいだった。

祖母は1926年(大正15年)の生まれ。農家の生まれで7人兄弟の4番目である。上に兄が2人と姉が1人、下には弟と妹が2人。物心ついたころには姉と二人で下の子どもたちの面倒を見ていたという。祖母が小学校を出た頃、1937年(昭和12年)には日中戦争が始まる。家業を手伝いつつ、近所の軍事工場に奉公に行っていたり、名古屋か大阪に出稼ぎを兼ねて行っていたと聞いたこともある。戦争の頃のことは、あまり話してはくれなかった。

終戦後。1949年(昭和24年)頃に祖母は4歳上の祖父と結婚する。当時、祖母は23歳。祖父は27歳。

祖父は従軍して南方戦線に赴いていたそう。親父も詳しくは聞いたことがないそうだけれど。おそらく、松本市に拠点を置く「歩兵第五十聯隊」に所属していたはず。歩兵第五十聯隊は1944年(昭和19年)には満州の瀋陽から、マリアナ諸島テニアン島の守備に動員され、「テニアンの戦い」で玉砕することとなる。

玉砕した部隊に祖父は居たのになぜ無事に帰国できたのか。経緯はよく知らないけれど。祖父はマラリアかなにかの熱病にかかり、療養していて、玉砕することはなかったそう。ただ、終戦後に帰国した後も数年間は病気が再発し、熱にうなされて、布団で押さえつけられていたというエピソードを聞いたことがある。

祖父と祖母の結婚の経緯も特に聞けなかったけれど……。祖父の病気が落ち着いて「そろそろ世帯を持たないと」となり、近くの村で妙齢だった祖母が選ばれたのだろう。

祖父も農家の次男だから本家は継げない。本家がある集落から高台にある雑木林を開墾して今の実家を畑を作ったという。当時の長野県塩尻市桔梗ヶ原は、松が覆い茂る原野で、高台のため水に乏しく、井戸を掘るにしても20~30mは掘らないといけなかったそう。農業には適さない土地だったので、江戸年間は周辺集落の草刈り場になっていたようだ。そんな土地を昭和20年代にトラクターもないなか牛と馬を用いて祖父と祖母は開墾していったそうだ。今も実家の敷地には当時、牛小屋として使っていた建物が物置として存在していたりもする。

1952年(昭和27年)には親父が生まれ。その4年後には叔父が生まれた。祖父は米、芋、とうもろこしにブドウなど農業をやりつつ、鉄工所にも務めて食い扶持を稼いでいたそうだ。

戦時中に軍事工場で働いていた以外に祖母がどこかに就職したとは聞いていない。毎年畑をやり、野菜とブドウを育てて、味噌を仕込み、秋には収穫した野沢菜や白菜で漬物を作り……と暮らしてきたのだろう。高度経済成長期を経て、家も3回建て替えた。以前の家は電灯のみで、ガスが無いので火はかまど、風呂は五右衛門風呂で、土壁がむき出しだった。家を建て替えてからも、掘りコタツには「慣れているから」と豆炭を使っていた。それも平成になってから電気コタツに変えていた。

時折、僕は「祖母は幸せだったのだろうか?」と考えることがある。

木を切り、根っこを抜き、石を拾う作業の開墾は、そりゃ大変だったはずだ。ただ、一方でその開墾した土地は、近所に出来た大学が土地を欲していたので一部売れたという。元々の集落に住む人のなかには「上で開墾してた連中は大学が土地買ってくれたんだから、みんないい思いをしている」と話す人もいた。

何かものを決めるにしても「そうかねぇ…」が口癖だった祖母の性格を考えたら、おそらく「自分からなにか決めてやる」という経験は少なかったように思う。実家のブドウ園も「ここらの土地は痩せてるけど果樹園やれば、引き取り手はあるから」という考えからだと思う。特に栽培に関しての矜持を聞いたことはあまりない。祖母の行動原理は村のしきたりだったり、昭和の「女はこうするもんだ」という価値観で動いていたように思う。

今でも本家に挨拶に行くと、おんなしょ(女衆)である本家の婆ちゃんが、スッと立って台所に茶を入れに行く。おとこしょ(男衆)が話している最中に自然と湯呑にお代わりの茶を注ぎ、「これ食べましょ」と茶菓子と漬物を眼の前に寄せてくれる。その所作やタイミングは一切無駄がない。「お茶はおんなしょが入れる」という通念に一つも疑念を持たないんだろう。そんな婆ちゃんたちの姿を見ると「昭和の価値観がガチガチにインストールされてんだなぁ」と思ったりするのだ。

祖母は2017年1月に90歳で亡くなった。祖母が幸せだったかはもう分からない。それを聞いてみたいけれど。祖母の「へぇ長生きしただ」という言葉に内包されているような気もする。市井の、普通の人が何の気なしに、普通に生活して、生きていける世の中にすること。それがこれからを生きる僕らの努めなように思うのだ。


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