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蝉の鳴き声で、ものの哀れを感じる


春には桜吹雪が散って行くのを見て、ものの哀れを感じ、
夏にはセミの鳴き声で、ものの哀れを感じ、
秋には紅葉の葉を見て、ものの哀れを感じる。

それは「全て終わりを感じさせるから」だ。

ふと冬はなんだろう、と思った時に、今年の冬に初めて行った「雪の津軽平野」を思い出した。
ストーブ列車から見る、一面の雪景色は、そこで生活をした経験がないからこそ、「綺麗だ」の一言で終わるのかもしれない、と思うが、冬にものの哀れを感じたことは案外ないのかもしれない。
むしろ、冬とは言っても、葉っぱ一枚残っていない木を見ていても、このまだ何もない木も、見えないところで準備をして芽を出そうとしている、と思えてしまう。
私自身が冬に対して、「芽生えの前の準備期間」と捉えていることに、少し驚いてしまった。

「ジャンプの前の屈んでいる時」
「夜明け前が1番暗い」

とよく言われるが、冬に対してそんなイメージを私は持っているらしい。

もし、冬にものの哀れを感じる方がいらしたら、教えて欲しい。(本当に思いつかなかった)

人生においても同じことが言える。

ものの哀れとは、全てのものはやがて終わる、という意味で、それは人の死でもあるが、嫌なことや大変なことも、やがて終わる、という前向きな意味でもある。

息子が亡くなり、途方に暮れていた時に、伯父が「明けない夜明けはない」と言ってくれ、その言葉を支えにしていたことを思い出す。

先日も、まあまあ大変なことがあったのだけど、「夜明け前が一番暗い」「飛躍の前の屈んでいる時期」だと、自分に言い聞かせていた。

春夏秋冬があるように、人生も春夏秋冬があり、もっと短いスパンでも種まき、育成、収穫、養分を与える時期、とあるのだと思う。

例え何が起きたとしても、時に挫けそうになったとしても、人生には春夏秋冬があると思えば、案外救われるかもしれない。

物は考え様。
物は捉え様。

つくづく、実感している。


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