日本の建築史(近世)

お疲れ様です。
前回の記事では中世(鎌倉時代~安土桃山時代)の建築史を扱いました。
前回の分をざっくり振り返った後、本題の近世(江戸時代)の建築史を扱おうと思います。宜しくお願いします。

・前回のおさらい(中世の建築史について)

円覚寺舎利殿(「Wikipediaより」)

鎌倉時代_鎌倉を中心に武士達が政権を握る時代が続きます。寺院の復興や中国から禅宗が持ち込まれた事によって、それ以前の和様に加え、大仏様や禅宗様といった様式が広がっていきました。
室町時代_京都に幕府が移った為、京の貴族文化と武士の文化などが融合して、書院造が誕生します。
戦国時代_大名達が群雄闊歩する下剋上の世となり、敵対する寺院などは破壊の目に合いましたが、城郭の天守や書院造の発展、茶室などと新たな建築も誕生していきました。

・江戸時代

(江戸幕府を含んだ大きな流れ)

江戸図屏風_初期の江戸の様子(「Wikipediaより」)

(主要な建築など:江戸の発展、霊廟建築(東照宮など)の造営、寺院の復興・拡大、二条城)
江戸の発展_戦乱の世を治めた徳川家康が居城に選んだのは、当時は栄えておらず低湿地帯が広がるような江戸の地でした。江戸城を中心として大改造を行い、大都市として成長していきます。(明暦の大火で江戸の6割ほどが焼けてしまい、市街復興が優先された為に焼失した江戸城は再建されませんでした。)
霊廟建築_と聞くと、徳川家康を祀る権現造の東照宮が有名ですが、江戸時代は将軍や大名などを祀る霊廟建築が多く建てられていたようです。江戸時代前半は豪華絢爛なものが造られていきましたが財政難を機に徐々に陰りを見せます。
寺院の復興・拡大_前時代は幕府側と敵対することが多かった寺院勢力を寺請制度などによって統制下に置き、幕府主導で荒廃した寺院などを復興していきました。
二条城_徳川幕府の京都の拠点であり、幕府と朝廷を結ぶ公武間の儀式の場として造営されました。その空間構成は権威と身分差を明示する舞台でもあり、歴史の舞台でもありました。

(民衆文化の隆盛と建築の発展)

歌川廣重画『東都名所 芝居町繁榮之圖』(「Wikipediaより」)

(主要な建築など:地方都市の変容、寺社建築の民衆化、町家、農村民家、娯楽施設)
地方都市の変容_徳川幕府の命による一国一城令が出たことにより、城が残った城下町への集住が進み都市の高度化が起きるという事態が発生しました。
寺社建築の民衆化_幕府の寺請制度や、参詣・巡礼の広まりによって民衆と寺院の距離が近くなり、寺社建築の民衆化が起こります。寺社の近くの門前町が栄え、寺院自体も参拝空間の充実や装飾が多くなっていきました。
町家_都市の発展とともに町家が軒を連ねる街並みが形成されていきます。町家自身の建築は制限が多くかけられており、統一した街並みが形成されると同時に、卯建などでステータスを表そうと変化が見受けられます。
農村民家_農村の生活も向上し地域性に合わせて様々な形の家屋が誕生しました。(曲屋(岩手)、本棟造(長野)、合掌造(岐阜)、くど造(佐賀)など)
娯楽施設_民衆の興隆とともに大衆の娯楽に応えるため、多くの娯楽施設が誕生します。(遊郭、芝居小屋、湯屋など)

・まとめ、考察

私情ですが、徳川家康について天下統一を果たした戦国武将としてもそうですが、その後の統制の仕方や都市計画においても凄い人物としか言いようがないような尊敬する歴史上の偉人です。荒野が広がる江戸に目を付けて幕府を開き江戸時代が300年近くも安寧の世が続いたこと、その後も東京として大都市として発展していったことに対して、鋭い先見の明と深い思考力があったと思えてなりません。
そんな安寧の世が続いたことによって、中世の武士に力の重点が置かれた時代から脱却し、民衆に力の重点が移っていきその建築文化も開いていった時代だといえます。おそらくそれを示す証拠となるのは明暦の大火以降に江戸の中心である江戸城が再建されなかったことだと考えます。権力の象徴である城が不在となった為に、権力の集中が弱まり各地で身分を超えて多様な文化が開いていった、そんな時代だったのだと考察します。

最後まで読んで頂きありがとうございました。以下の資料を参考にさせて頂きました↓
・建物が語る日本の歴史 (海野聡 著)


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