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九キロは長すぎる(16)

 休日の江ノ島電鉄は、大勢の乗客で混雑している。
 日曜日の昼過ぎ、僕と立花は水本玲奈から指定された、長谷はせにある喫茶店に向かっていた。

 昨日、鎌倉南署は水本玲奈が提出したボイスレコーダーの録音データを基に、芹沢透の捜査に当たったらしい。
 結果はすでに、メールで伝わっている。
 芹沢は水本との関係を認め、淫行の容疑で逮捕された。
 だが、殺人についてはシロ。芹沢には完璧なアリバイがあったようだ。

 とにかくこれで、僕たちの調査は振り出しに戻ったわけだ。
 これから詳しい話を、水本玲奈から聞く手筈になっている。

「にしても、なんでわざわざ長谷なんだ」
 僕は吊り革につかまりながら、やや不満げに言った。「最寄りの、七里ヶ浜にある店じゃ駄目だったのか?」
「そこのお店、玲奈ちゃんの行きつけらしくてさ。水本さんともよく二人で通ってたらしい。お姉さんに関することは、お姉さんとの思い出がある場所で話したいんだって」
「……なるほどな。ま、別に数駅分くらいどうってことないか」
 立花が含み笑いを浮かべてこっちを見てくるのを、視線を逸らして無視する。

 気温が著しく低いため、僕はカーディガンの上にいつものようにダッフルコートを羽織り、マフラーを巻いていた。当然のことだ。
 だが、あの立花でさえも、厚手のダウンジャケットとネックウォーマーを身に包み、防寒を怠ることはなかった。それほど寒いのだ。
 揺れる車内で僕と立花は、ガラスの向こうに広がる寒々とした相模湾を、ただ黙って眺めていた。

 長谷駅を出ると、県道を北上し、長谷観音前の交差点を右に折れる。
 しばらく東に歩いていると、やがて道沿いに建つ、『ルビー・チューズデイ』という店名の喫茶店の前に到着した。
 黄色いひさしとステンドグラスの窓が目立つ、古き良き純喫茶という佇まいだ。

 入店するとすぐ、出入り口の傍の窓際のボックス席に座る、水本玲奈の姿が視界に入った。
 向こうも僕たちに気づき、軽く会釈する。ブルゾンを着ていて、髪はハーフアップでまとめている。予想通り、浮かない顔つきをしていた。

 鮮やかな黄色い革張りの椅子に座り、水本玲奈と向かい合う。
 店内はレトロな内装で、微かにジャズがかかっていた。
 そして適度に暖房が効いている。外の地獄のような寒さから解放されただけでも、ここが楽園に思えてならなかった。

「やあ、待たせたちゃったかな」
 立花がそう言うと、水本玲奈は小さくかぶりを振った。「いえ、わたしも今来たところです」
 立花が防寒着を椅子の背もたれに掛け、「芹沢先生のことだけど……」と言いかけると、
 水本玲奈が被せるように言った。「あ、その前に何かご注文なさってください。ここのお店、飲み物だけじゃなくてフードやデザートも充実してるので、おすすめです」
「いいね。僕は甘い物に目がないんだ」

 まもなく僕たちの席に、物腰が柔らかそうな熟年の女性の店員がやってくる。お冷やを二人分置いてくれ、「ご注文、どうされますか?」と笑顔で尋ねる。
 立花がメニュー表を見ながら、迷いなく注文する。「じゃあ、僕はチョコレートパフェと自家製プリンを。ああ、あとクリームあんみつもお願いします」

 さすが甘党。そしてナポリタンやサンドイッチといったフードを注文していないところを見るに、昼食はすでに済ませているのだろう。
 その上で、それだけの量を注文するとは。見ると、水本玲奈も少し引いた顔をしている。

「草野君は?」
「そうだな……僕はアメリカンコーヒーを」
 そう言うと、「コーヒーだけなんてもったいないですよ」と水本玲奈が口を挟んでくる。「甘い物が苦手でしたら、コーヒーゼリーとかどうですか?」
「……じゃあ、コーヒーゼリーも」
 水本玲奈は、この店の売り上げに確実に貢献している。これが模範的な常連か。

 店員の女性が注文の品を復唱し、カウンターの方に戻っていった。
 奥の厨房に白髪の紳士的な雰囲気の男性の姿が見える。おそらく、夫婦で営業しているのだろう。

 水本玲奈はティーカップに口をつけた後、話し始める。「両親も祖父母も、相当ショックを受けています。姉が妊娠していて、しかも、その相手が高校の教師だったとわかって……」
「そりゃ、そうだよね。誰だってそうだと思う」
 立花は同調する。「ちなみに、二人の関係はいつ頃からか、警察から聞いてる?」
「去年の夏頃、およそ半年前からみたいですね。姉から告白して、付き合うようになったと」

「水本さんからか。……いや、芹沢に憧れていた女子は多かった。別に、そこまで意外でもないか」
「でも、姉はそれまで彼氏とかいたことなかったので、自分から告白したのはわたしは少し意外に思いました」
「だけど、それってあくまでも芹沢の言い分なんだろ?」
 僕は意を唱える。「本当のところは、わからないんじゃないか? 嘘をついている可能性もある」

 立花が苦笑しながら、「まあ、それは確かにそうなんだけどね」と言う。「それで、芹沢は具体的になんて供述してるの?」
「はい。お伝えした通り、姉と肉体関係があったことは全面的に認めています。でも、殺人については否認していて、警察も芹沢は姉を殺害していないと、そのように判断してるんです」
「アリバイがあったんだよね?」
 立花はグラスに口を運ぶと、尋ねる。「それも、鉄壁なやつが」

 水本玲奈は悔しそうな顔で頷いた。「芹沢の自宅マンションの、防犯カメラの映像が根拠みたいです。芹沢はあの日、金曜日の午後十時半過ぎに帰宅した後、翌日の昼まで一度も部屋から外出しなかったみたいなんです。
 防犯カメラの映像によると、姉の死亡推定時刻の、土曜日の午前零時から二時の間、芹沢はマンションのエントランスを一度も通らなかったし、もちろん駐車場の車も動いていなかったそうです。つまり状況的に、芹沢には犯行が不可能だったと」
 僕はすかさず訊いた。「芹沢の部屋は、何階にあるの?」
「十二階です」
「なるほど。それならベランダから出て、外に降りることは、現実的に考えて不可能ってわけか」
 水本玲奈は唇を噛み締め、小さく首を縦に振る。「警察は当初の見立て通り、姉は自殺だったのだろうと、そう結論づけています」

 水本の死は、本当に他殺ではないのか? 自分の意思であの崖から転落したということか? 
 だが、何か釈然としない。
 水本小百合は単に自殺したのだとここで結論づけるのは、それは臆断ではないのか。何か、警察が見落としているような点があるのではないか。
 そんな勘が、大した根拠もなく働いていた。

「芹沢はあの日、水本さんと密会したことは認めてるのかな?」
「はい。前日の木曜日に、芹沢は電話で姉と会う約束をしていたそうです。そして金曜日の夜、横浜のホテル内のレストランで食事をした後、そのまま部屋に行って……でも、そこではそういうことはしていなくて、別れ話をするためだったと」
 立花が訊き返す。「別れ話?」
「もう一度、姉に中絶をするように説得して、その上で関係を終わりにしようと伝えたんだそうです。ホテルの部屋を取ったのは、他に誰もいない環境で話し合うためらしくて。
 ですが、芹沢が言うには、姉は中絶も、別れることも激しく拒否したらしく、感情を取り乱して、まともに話し合いができるような状態ではなかったと」と水本玲奈は言った後、少し言い淀む。「……姉とは後日、もう一度、冷静に話し合うことを約束したみたいなんですが、姉はその日の夜、子供を堕ろすことを強要され、その上、芹沢から別れを告げられたことを苦に、それで自殺したんじゃないか、と。——芹沢は、そう主張してるみたいです」

 芹沢に再度、中絶を求められ、終いには別れを言い渡されたことが端緒となり、自殺、か。
 僕はゆっくりと息を吐き、口を開いた。「芹沢は、嘘をついている」
 僕の意見に、立花も同意した。「ああ、確実についてるね」
「お二人も、そう思いますか?」

「そう思うよ」
 立花ははっきりと答えた。「芹沢はその前日の木曜日、水本さんに電話をかけた際、なんて言って会う約束を交わしたか、警察から聞いてる?」
「『中絶について、もう一度、ちゃんと話し合おう』と。そう言ったみたいです」
「うん、やっぱり嘘だね。もし仮にそれが本当だとするなら、水本さんがあの日、ばっちりメイクして、お気に入りの服を着て、やたらと嬉しそうな様子で外出したことと矛盾する。『中絶について、ちゃんと話し合おう』なんて言われて、水本さんがそんなふうに舞い上がるはずがないよ。したがって、芹沢の供述は嘘だということが看破できるわけだ」

 立花が背理法を使って説明すると、水本玲奈は感嘆するように吐息を漏らした。
「ほんとですね。言われてみれば、姉が舞い上がるはずありません。矛盾してます。わたしはただ感情で、芹沢は嘘をついてるって決めつけてましたけど、納得のいく反論ができたんですね」
「そう。おまけに水本さんは、そんな用件では会いに行こうとすら思わないだろうね。なぜならもう一度、芹沢に中絶を強要されることはわかりきってるからだ。
 そして、あの録音のやりとりを見れば、水本さんが芹沢に対して心底失望し、侮蔑したことは明らかだよ。二人の関係はもはや壊滅的な状態だった。だから、水本さんからの信頼を取り戻す唯一の手段が、例の『甘い言葉』だったってことだよ。僕らが推論したように、芹沢は木曜日に、絶対にその言葉を電話で吐いたはずだ」
「『中絶はしなくていい。もう一度、関係をやり直して、卒業したら結婚しよう』でしたね」
 立花は首肯する。

 僕は腕組みしながら言った。「要するに芹沢の供述は、あくまでも水本は自殺であるのだと警察に思い込ませるための詭弁ってことだ。もちろん、あの日、実際には話し合いなんか行われておらず、芹沢が水本と会ったのは、他に別の理由があったのだと推定できる」
「別の理由って……」
 立花はグラスを傾けながら、「無論、水本さんへの口封じさ」と言った。
「でも、芹沢にはアリバイがあるんじゃ……」
 そう言いかけて、水本玲奈は口をつぐむ。「……そう言えばお二人に、まだ伝えていない事実がありました」

「ん?」
 立花が首を傾げる。
「芹沢の供述に、一点だけ確認が取れないことがあったみたいなんです」
「なんだい?」
「芹沢はあの日の夜、ホテルから姉を藤沢駅まで車で送っていったと話してるみたいなんですけど、駅周辺の防犯カメラに、芹沢の車は一台も映っていないらしいんです」

「つまり、嘘をついてると?」
 これは僕が訊いた。
 水本玲奈は小さく首肯する。「おそらく。警察は、芹沢には完璧なアリバイがあるから、そのことを特に重視していませんが、それについて嘘をついてるというのは何か引っかかりませんか?」
 立花が口元に拳を当て、唸る。「確かに、それは見逃せないね。——まとめれば、これまでのところ、芹沢は二つ嘘をついていることになる。一つは、水本さんと会った理由。そしてもう一つが、藤沢駅まで水本さんを車で送っていったこと。動機があって、嘘までついている。うん、もはや芹沢が犯行に関わっていることは、疑いようのない事実になってきた」

 そうだ。やはり水本小百合は自殺なんかではない。
 殺されたのだ。それも、計画的に。
 芹沢は、水本の死に絡んでいる。アリバイはあるが、何らかの形で関与している。
 そして、ここでこれまでのある前提が、大きく揺らぐことになる。つまり、だ。

「いるな。そう思わないか、立花?」
「ああ、いる。間違いなくいるね」
「何がいるんですか」
 僕は水本玲奈のどこか怯えた目を、真っ直ぐ見つめて答えた。「共犯者だよ」

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