見出し画像

九キロは長すぎる(15)

 水本玲奈の気分が落ち着くのを、僕と立花はカウチソファに座って待っていた。

 どちらも、言葉を発さない。家の奥から水本玲奈の啜り泣く声と、掃き出し窓の外で勢いよく振り続ける雨の音だけが聞こえている。
 僕は腕を組んで虚空を見つめていたし、立花は口元に握り拳を当てて視線を落としていた。
 今は頭の中で思考を整理して、精神を安定させる時間だった。

 十分ほど待っていると、目の周りを赤く腫らした水本玲奈がリビングに戻ってきた。
 静かにソファに腰掛けながら、「すみません、お待たせしてしまって」と詫びる。
 立花が控えめに首を横に振った。「ううん、大丈夫」
「そっちこそ、平気なの?」
 僕がためらいがちに訊くと、
 水本玲奈は鼻を啜りながら、答えた。「はい、なんとか。体中の水分が全部蒸発しちゃうんじゃないかってくらい泣いたので、もう平気です」

 立花が穏やかに微笑んだ。「それはよかった」
「わたしのことは大丈夫です。お二人とも、お気遣いありがとうございます。それよりも、あの録音データについて話し合いましょう」
「そうだね。みんなの考察を発表し合おうか」

 すると、「わたしから言わせてもらっていいですか」と水本玲奈が有無を言わせない語調で言った。
「やっぱり、芹沢が犯人だったんです。あのクズが姉を殺したに決まってます。それしか考えられません。姉だけじゃなく、お腹の子の命まで奪って……今度は私が殺してやりたいくらい」
「芹沢が最悪なのは間違いない」
 僕は腕組みしたまま、同調する。「だけど、あの録音が芹沢の犯行を裏付けているかと言うと……殺人の証拠としては弱いと思う。と言うより、状況証拠ですらない」
「僕も同じ意見だ。あれは示唆であって、証明ではない。でも、芹沢先生が水本さんを殺していた場合、その可能性は高いとは思うけど、これで動機ははっきりしたわけだね」
「姉への、口封じですね」

 立花が首肯する。「芹沢先生は中絶を求めたけど、水本さんはそれを拒んだ。水本さんが出産という選択をすれば、それは芹沢先生の人生が破綻することを意味する。その事態をなんとか阻止するために、芹沢先生は水本さんに手をかけた——経緯はそういうことだろう」
 水本玲奈が俯いて、「絶対に許せない」と吐き捨てるようにつぶやく。

 僕は腕組みを解いて、発言する。「つまり水本が抱えていた、誰にも打ち明けられなかった深刻なトラブル、っていうのは、『自身が妊娠し、そしてその相手の男、芹沢に中絶を迫られたこと』っていうわけだな」
「そうなるね。高校の先生との関係が原因で懐妊しただなんて、気軽に誰かに相談できるような内容じゃないよ。あまりにも重い」
「ああ。そして、『今の私には九キロは長すぎる』っていう言葉の意味も、これで理解できた。椎名の証言によれば、水本は亡くなる五日前の月曜日に、その言葉を発したらしい。一方、録音データの日付は、その前日の日曜日だ。
 つまり九キロ発言は、あの録音のやりとりを交わした、翌日の発言だったんだ。……昨夜、自身に中絶を求めた恋人と、翌日も顔を合わさなければならない。きっと水本にとって、その状況は最悪だったはずだ。気分は鬱屈としていて、まともに長距離を走れるような精神状態じゃなかった。その上、妊娠してるわけだから、激しい運動なんてハナから物理的に無理がある」
 そう言って、僕は一拍置いた。「だから、九キロは長すぎたんだ」

「そういう意味だったんですね……」
 水本玲奈が目を伏せて、沈んだ声で言った。それからすぐに顔を上げる。「じゃあ事件の日、姉がやたらと嬉しそうに家を出ていったのは何だったんですか? ばっちりメイクして、いつも以上にお洒落して。とても幸せそうな様子でした。ずいぶんと対照的ですよね?」
 立花が即答した。「それは、芹沢先生が水本さんを騙したんだよ」
「騙した? どういうことですか?」
「いいかい? 芹沢先生は水本さんに対して、きっとこんなことを言ったはずだ。『俺が全部悪かった。子供は産んでいい。だから、君との関係をもう一度やり直したい。そして君が卒業した暁には、結婚しよう』ってね。結果、水本さんの心境は、絶望から幸福に変わった」

 水本玲奈が息を呑んだ。
 僕は補足する。「芹沢は、そういう『甘い言葉』で水本を誘き寄せ、信用させた後に、犯行に及んだんだ。しかも巧妙に、自殺に見せかけて殺害して、警察まで騙してみせた。僕たちの推論通りなら、芹沢はとんでもなく狡猾で、非情な人間だということになる」
「そんな異常な殺人犯が、先輩たちの高校で平然と勤務してるんですね」
 水本玲奈が冷たい声でそう言うと、息が詰まりそうな沈黙がリビングの空間を支配する。僕たちは数秒間、黙り込んだ。

 立花が水本玲奈に顔を向け、口を開く。「玲奈ちゃん。さっき僕と草野くんは、あの録音データは殺人の証拠にはならないって言ったけど、警察には提出するべきだよ。それをきっかけに、捜査をやり直してくれるかもしれない」
「もちろん、そのつもりです。担当の刑事さんに渡して、知ってること全部話して、必ず殺人罪と淫行で芹沢を逮捕させます」
「うん、そうなることを祈ってる」

 そう。立花の言う通り、ここからは警察の仕事だ。
 僕たちの調査活動はこれで終了し、また身の丈に合ったいつもの高校生活に戻ることになる。

 あのボイスレコーダーに録音された音声——あれのみでは殺人での立件はまず不可能。だが一方で、淫行での立件は期待できる。
 あの音声は、芹沢が水本と特別な関係があったことを示す、充分な証拠になり得るはずだ。
 そして、その根拠を基に警察が捜査を進めていけば、芹沢の「水本への口封じ」の事実が暴かれるかもしれない。

 ふと僕は思いつきで、口走っていた。「もしかしたらお姉さんは、こういう時のためにあのやりとりを記録していたのかもしれない」
「それって……姉が予見していたってことですか」
「ああ。芹沢には潜在的に危険な面があると、お姉さんは薄々と感じていた。だからこそ携帯ではなく、バレる危険性が極端に少ない、ボールペン型のボイスレコーダーで録音をした。
 実際、携帯は見つからなかったわけだし、それは多分、君の言うように芹沢が処分したんだろう。きっとお姉さんは、万が一のことを思って、あれを録音したんだ」
 水本玲奈は涙を浮かべながら、「わたしも、そんな気がします」と言った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?