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九キロは長すぎる(14)

 三人分の湯呑みと小皿が空になると、水本玲奈の案内で、僕たちは二階にある水本小百合の部屋へと向かった。
 水本玲奈が扉を開け、電気を点ける。

 部屋は八畳ほどの広さで、綺麗に整頓されていた。
 本棚には雑誌や少女漫画、ドレッサーには化粧品や香水の数々、ベッドの上にはディズニーのぬいぐるみがいくつか横たわっている。
 白い壁には壁掛け時計や、男性アイドルグループのポスターやカレンダーが掛かり、勉強机のラックには学校の教科書や参考書、何冊ものノートが整然と並ぶ。

 ここには、水本小百合が生活していた痕跡が明瞭に残っている。
 そして、この部屋の主がもうこの世にはいないことを、改めて痛感した。

 水本玲奈がリモコンで暖房のスイッチを入れた。この気遣いはありがたい。
 それから、僕と立花に向かって丁寧に頭を下げた。「では、よろしくお願いします。遠慮なく、隅々まで調べちゃってください。殺人事件の捜査だと思って」
「うん、わかった。そのつもりでやる」
 立花はそう言うと、僕に視線を寄越した。「じゃあ草野くん、取り掛かろうか」
「ああ、やろう」
「手順はどうする? 期待できそうなのは、机、本棚、クローゼット辺りだと思うけど。いや、ベッドの下も怪しいか」
「そうだな……この勉強机を起点として、僕が反時計回りに調べるから、立花は時計回りに調べていってくれ。効率よく、隈なく捜索するんだ」
「オーケー」

 僕たちは、水本の死に芹沢が関わっている証拠を探すため、部屋を丹念に調べていった。
 正直に言って、後ろめたさは一切なかった。妹のお墨付きを得ているのもあるが、僕は自分でも思っている以上に、真相解明を強く望んでいたらしい。
 水本小百合はなぜ死ななければならなかったのか? 
 その疑問が氷解するような答えを、是が非で見つけたかった。

 捜索を開始して、一時間以上は経過しただろうか。壁掛け時計を見ると、もう七時半を回っている。
 僕と立花は部屋中を余すことなく、隅から隅まで調べ回った。

 しかし、自分たちが求めるような有力な手がかりは、何一つ見つからない。
 一応、手帳や日記帳の類いはあるものの、そこには芹沢の名前さえどこにも記載されていなかった。
 水本の秘密主義は、完璧なくらい徹底しているのだ。

 そして、整理整頓が行き届いていたこの部屋は、僕たちの手によって雑然と散らかった状態に様変わりしていた。
 フローリングの床を埋め尽くすように、物が秩序なく散乱し、溢れかえっている。
 家族が帰ってきてこの惨状と僕たちの姿を見たら、泥棒と勘違いするかもしれない。

「疲れた」
 立花がを上げて、その場にへたり込んだ。「ちょっと休憩」
「何か飲み物持ってきましょうか?」
 水本玲奈の提案に、立花は嬉し気な様子で答える。「ありがとう。お水、もらえるかな」
「わかりました。お二人分、持ってきますね」
 そう言って、水本玲奈が部屋を後にした。開け放たれた扉の向こうから、軽快に階段を降りていく足音が聞こえる。

 雨は絶え間なく降り続いている。水玉柄のカーテンで閉じられた窓の外から、遠くの方で雷鳴が断続的に聞こえていた。
「草野くんも休憩しなよ。適度な休憩は集中力を回復して、生産性を高める効果があるぜ」
 ああ、と僕は立花の学術的なアドバイスに空返事をして、何度も調べた勉強机を再度調べ直す。

 ふと、机上のペン立てに収納された、一本のメタリックカラーのボールペンに目がいく。
 何気なく手に取ってみると、微かな違和感を覚えた。重い。
 見た目は何ら高級感のない一般的なボールペンなのにも関わらず、思ったよりも少し重量感がある。

 まさか、と思いながら蓋を回して外してみると、予感は的中した。
 ボールペンの中に、USB端子の差し込み口があったのだ。
「立花」
 僕の焦燥を含んだ声に、ただ事ではないと感じたのだろう。立花はすぐに体を起こし、傍に駆け寄ってくる。「どうした?」
「これ、見てくれ」
 問題のボールペンの中身を、立花に向ける。

 立花が絶句した。「これって……」
「ああ、間違いない」
 立花は僕から手渡されたボールペンを、まじまじと注視する。「やるじゃないか、草野くん。なんでわかったんだ?」
「偶然だよ。偶然手に持って、少し重いなと感じた。それで蓋を開けてみたら、これに気づいた」
「大した観察力だよ」
 言って、立花は白い歯を見せる。「それにしても水本さんは、意外にもこんなのを持ってたんだ。もしかするとこの中に……」
 僕は浅く頷いた。「運が良ければ、何か重要な手がかりが残されてるかも」

 僕は勉強机の方を振り返り、ペン立てに収められているUSBケーブルを手に取った。
 初めて目にした時、なぜこんなところにケーブルが、と疑問に思ったが、今なら理解できる。
 立花からボールペンを受け取り、USBケーブルの端子を差し込み口に接続する。それは正確に、ぴたりと一致した。

「これで、パソコンで再生できるはずだ」
 僕がそう言うと同時に、トレーを持った水本玲奈が部屋に戻ってきた。
 立花がすかさず訊く。「玲奈ちゃん、パソコンってリビングにあったよね?」
「はい、ありますよ。それが何か?」
「草野くんが、ボールペン型のボイスレコーダーを見つけた」


 一階のリビングで、ボイスレコーダーを接続したパソコンに、僕たちは向かっていた。
 液晶画面に表示されたメディアプレーヤーの中に、録音データが一件だけ保存されている。
 日付は一月の下旬、今から十二日前で、水本が亡くなる六日前の日曜日だ。

 心臓が早鐘を打つのを抑えるために、静かに深呼吸をした。少し息が整う。
 やや緊張が緩和した僕の両隣を、立花と水本玲奈が挟んでいる。
 右手でマウスを持ちながら、僕は水本玲奈を横目で見た。「再生してもいいかな」
 水本玲奈は真剣な面持ちで、「はい、お願いします」と言った。だが、その声は若干震えていた。

 カーソルを動かし、所定の位置をクリックする。
 録音データの再生が開始された途端、ノイズが走った。ポケットに入れて録音しているのだろう、衣擦れの音がひどい。

 しばらく、パソコンのスピーカーが雑音だけを流している状態が続いたかと思うと、やがて人の声が聞こえ始めた。
 音質は悪いが、水本の声だということはすぐにわかる。
『先生』
『どうした?』
『わたし……できちゃったみたい』
『できたって……まさか』
『しばらく生理が来なくて、産婦人科で検査してもらったら、妊娠五週目だって』
『なんで……』
『避妊してても、妊娠しないとは限らないって……お医者さんがそう言ってた』
『……』
『先生、わたし産みたい。と言うか、産むつもり。いいよね?』
『小百合、駄目だ。考え直してくれ』
『なんで?』
『なんで? わかるだろ? 俺は君の高校の教師で、部活の顧問だ。こんなことがバレたら、俺はキャリアを失うどころか、淫行で捕まってしまう。人生が台無しになってしまうんだよ。……せっかく、県内でも有数の進学校で働けてるんだ。今の立場を、捨てたくない』
『だから? そのために堕ろせって言うの?』
『そうだ。もちろん、費用は全額払う。頼む、お願いだ。中絶してくれ』
『何それ? 自分の将来のために、お腹の中の命を殺せって?』
『それはまだ、人じゃない。だから、殺人にはならない』
『やめて!』
『小百合!』
『もう嫌だ……話すんじゃなかった……』

 音声は、ここで終了していた。
 立花は口を手で覆い隠し、悲痛な表情を浮かべていた。立花のこんな表情は、初めて見たかもしれない。

「お姉ちゃん……」
 咄嗟に振り向くと、水本玲奈が膝から崩れ落ちていた。そしてその瞳からは、大粒の涙が流れていた。

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