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九キロは長すぎる(13)

 早朝から降り出した雨は夕方になっても止む気配を見せず、むしろ雨脚は強まるばかりだった。

 金曜日。部室の窓を打つ激しい雨の音が聞こえる中、締め切りに追われる新聞部は粛々と活動に取り組んでいた。
 僕は昨夜に書き終えたばかりの原稿を部長の竹内に提出し、二度の厳しい添削を貰った後、三度目でやっと了解を得ることができた。

 僕が改稿に苦慮する中、立花は涼しい顔でキーボードを叩き、紙面の作成に取り掛かっていた。
 部室に常備されてあるパソコンは計二台で、原稿が出来上がった者から順に利用していくことになる。

 もちろん、部員数五名に対してパソコンが二台という環境は、需要と供給の不一致から作業を停滞させることもある。
 だが、立花のタイピング速度は凄まじく速い。ブラインドタッチはお手のもので、僕がパソコンに向かう時、すでに彼は自身の作業を終え、後輩の原稿のチェックに当たっていた。

 そして午後五時半過ぎる頃には、全員分の紙面レイアウトが完成し、今日の活動はこれで終了となった。
「なんとか間に合いそうね」
 部室の引き戸を施錠した竹内が、上機嫌そうに言った。
「そうですね」
 一年の女子、小林が同調する。「もしかしたら間に合わないんじゃないと思ってたから、安心しました」
 予定よりも早く印刷・製本作業に入れそうなことがわかり、新聞部の間にはどこか弛緩した空気が流れていた。

「竹内さん、鍵は僕らが返しておくよ」
「ほんと? ありがとう」
 竹内は立花に鍵を手渡す。
 今日は終日雨のため、陸上部は活動していない。だから職員室には、顧問の芹沢の姿があるはずだ。
 それを見越して、立花は鍵の返却を申し出たのだろう。

 昇降口の前で竹内たちと別れ、僕と立花は職員室に向かう。
 扉を開け、入ってすぐ左手の鍵置き場に、立花は部室の鍵を戻した。

 少し視線を彷徨わせると、すぐに遠くの方に芹沢の横顔が見えることに気づく。若い女性の教諭と談笑しているようだ。
 立花は冷淡な顔つきで、芹沢をじっと見つめていた。おそらく、僕も同じ表情だったと思う。


「先生、ずるい。乗せてってよお」
 正門を出て、傘をさしながら学校前の緩やかな坂道を下っていると、女子の甲高い声が聞こえてきた。
 前方に、女子生徒の集団が白のBMWの傍に集まり、どうやら同乗を打診しているらしい。

 車の横を通り過ぎる時、運転席に座る柏木先生が、「だーめ。ちゃんと気をつけて帰りなさいね」と言う声が聞こえた。
「ええ、けちい」
 強い雨の音を跳ね返すように、女子たちの不服そうな声が響き渡る。

 ビニール傘の下、僕はつぶやいた。「柏木先生、BMか。いいご身分だよな」
「先生スタイルいいから、余計似合うよね」と立花が微笑んで言った。「草野君は、将来乗りたい車とかないの?」
「車か。まあ、僕は無難に日本車だろうな。で、燃費効率の良いハイブリット車かな」
 そう言うと、立花が苦笑した。「草野君は、徹底的にリアリストだよな」
「と言うと?」
「だって、やっぱり高級車に乗るっていう夢を持ちたいじゃないか。中でも僕はドイツ車がいい。性能と見た目の良さの、両方を兼ね備えたやつだ」
 立花が高級車か。似合うような、似合わないような。

 降りしきる雨の中を走行する江ノ島電鉄は、やがて七里ヶ浜駅に停車した。
 駅を出て、踏切を渡り、水本玲奈から教えられた住所を目指して、一軒家が建ち並ぶ住宅街を北進する。
 僕たちは車の邪魔にならないように、一例になって夜道を歩き続けた。

 雨風が強いため、傘をさしていても若干濡れてしまう。
 冷たい雨粒と、水溜りを避けながら歩くのが煩わしい。
 ビニール傘の中で漏れた小さな溜め息は、同時にアスファルトを叩きつける激しい雨音に掻き消された。

 目的の家は、駅から歩いて十分くらいのところにあった。漆喰の白い外壁と広々としたテラスが印象的な、西洋風の二階建てだ。
 チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開けられ、スウェットにスカートという私服姿の水本玲奈が出てくる。一昨日とは違い、髪はロングになっていた。「お待ちしてました。どうぞお入りください」

 吹き抜けの開放的なリビングに通され、僕と立花はL字型のカウチソファに腰掛けた。室内は暖房が効いており、自然と気分が落ち着いてくる。
「お茶を淹れてきますので、ちょっと待っててください」
 そう言って、水本玲奈は奥のキッチンへと小走りに向かっていく。

 しばらく待っていると、水本玲奈がお盆を持って戻ってきた。
 ローテーブルの上に置かれた湯呑みからは白い湯気が立ち込めており、小皿の羊羹ようかんは艶やかな光沢を放っている。
煎茶せんちゃです。温まりますよ。羊羹との相性も良いので、是非」
 そうか、水本玲奈は茶道部だったな。

 ありがとう、と立花と礼を言い、温かい湯呑みに口をつける。
 水本玲奈の言う通り、体が芯から温まるような効果が実感できた。うん、美味い。
 僕たちの斜向かいに座る水本玲奈が、「母は、一時間ほど前に出発しました。帰ってくるのは、八時半過ぎになるかと」と言った。「父は仕事柄、いつも帰りが遅くて、大体九時以降になります。つまり、あと二時間以上は誰も帰ってきません」
「わかった」
 立花は羊羹を口に運びながら答える。「二時間もあるなら、充分だ」
 頷き、僕も羊羹を口にする。

 水本玲奈は思案顔になる。「わたしもこれまで何度も探したんですけど、手がかりらしい手がかりは全然見つからなくて。昨日の夜も探しました。でも、その芹沢とかいうクソ野郎と姉が関係があったことを示すような証拠すら、全く出てこなかったです」
「僕と草野君で、なんとか真相解明に繋がるような証拠を見つけてみるよ」
「右に同じく」

 水本玲奈は力強く首を縦に振り、姿勢良く煎茶を啜った。「ところで、姉が行ったというその高級フレンチですが、時期は一月の半ばでしたよね?」
「うん、そう。一月の半ばの、土曜日だった」
「それ、姉の誕生日の直後です。木曜日が十七歳の誕生日で、家でお祝いしたんです」
 僕は腕を組んで、「なるほど。土曜日は、芹沢がアントワーヌで水本の誕生日を祝ったってことか」と言った。「考えてみれば、そういう特別な日でもない限り、高校の教師が高級レストランでご馳走なんてしないだろう。収入的に」
「そういうことだと思います」

 立花が二重顎を撫でながら、尋ねる。「アントワーヌには赤いトレンチコートを着て行ったみたいだけど、そのコートは?」
「姉の部屋のクローゼットにあります。事件の日は、別のコートを着て行きました。黒いチェスターコートだったと」
「黒か。夜は目立たなくなる色だね」

 他殺だった場合、犯人が水本の遺体を現場に運ぶ際、その色は犯人にとって好都合となる。
 立花の発言は、そのことを言外に滲ませていた。

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