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【短編ミステリ】夏の朝、推理するわたし

 列車が発車したのはわかっていた。
 だって、「ファーン!!」っていう大きな警笛の音が、嫌でも耳に入ったから。
 それでも、なぜだろう。わたしの足は止まることはなかった。何も考えず、無我夢中で走っていた。

「はあ、はあ……」
 息を切らせながら無人の駅舎を走り抜け、ホームにたどり着いた時にはもう、手遅れだという残酷な事実を突きつけられる。
 列車は遥か十メートル以上先を走り、同時にわたしの遅刻が確定する。
 通学カバンを木製のベンチの上に放ると、
「最悪……」
 とわたしは溜め息を吐くようにつぶやいた。

 両手を腰に当て、肩で息をしながら、田舎から都会へと向かうローカル線を見つめる。小湊鐵道こみなとてつどうは、わたしを置き去りにしてどんどん小さくなっていく。
 全力で走った直後だから、呼吸は乱れ、全身に汗がまとわりついている。
 そんな状況でぎらぎらと照りつける太陽と、延々と聞こえる蝉の鳴き声が煩わしい。よく晴れた空には、北の方角に入道雲が高くそびえ立つ。
 海士有木あまありき駅のホームの周りには、あまりにも見慣れた田舎の風景が広がっていて、住宅がぽつぽつと点在しているものの、それ以外にあるのは自然、自然、自然だ。

 昨日から夏休みが始まって、そして今日は夏期講習二日目。
 進学を希望する三年生は夏休みの間、学校で夏期講習を任意で受けることになるのだけど、わたしは二日目にして早くも遅刻をかましてしまったのだ。いや、厳密にはまだ遅刻はしていない。けど、いわゆる避けては通れない決定事項ってやつだろうか。

 携帯を手に取る。液晶画面には、『07:33』と表示されている。次に上りの列車が来るまで、あと三十分以上。
 ただじりじりと時間が過ぎていくのを待つのって、なかなかしんどいよねって、わたしはやけに客観的な感想を抱いた。

 約三十分の遅れで、千葉市中央区浜野町にある、浜野高校に到着した。
 昇降口で急いで靴を履き替え、階段を駆け上がり、三年二組の教室の前に立つ。
 上がった息を整えて、恐る恐る後方の引き戸を開けると、席に座っている何人かの同級生がこちらを振り返った。

 ただ意外なことに、いや幸運なことに、教室に先生の姿はなかった。先生はいなくても、教室は割と静かだった——窓の外で蝉が鳴いているから、静寂っていうわけじゃないけど。
 それでもみんな、真面目に机に向かっている。みんな受験生なのだ、当然と言えば当然かもしれない。

 中腰になって、できるだけ反省している風を装いながら、後ろから三番目の真ん中辺り、自分の席にそっと着席した。
 前の席の、苅谷凛《かりやりん》が振り向いて、悪戯っぽい表情でさっそく声をかけてくる。
沙希さき、遅刻」
「わかってる。反省してます」
 舌をちょっぴり出して答えた。
 凛は腕を組んで、
「で? 遅刻の理由は?」
 と上目遣いに訊いてくる。
「あらやだ、尋問みたい」
「尋問よ、これは。さあ、氷室沙希さん、答えてください」
「自白します。二時間サスペンスです。録画してて溜まったやつを、消費しまくってました。夜遅くまで」
「それで寝坊、か。相変わらず好きだねえ」
 凛が呆れたように、苦笑いする。

 このやりとりが周囲の同級生に聞かれていると思うと、なんだか恥ずかしくなって、わたしは話を逸らすことにした。
「先生は?」
 と小声で訊く。
 凛は小刻みに首を左右に振った。
「いない。出てった」
「え、出てった? なんで?」
「わかんない。教室に入った瞬間にだよ? 急に、『一時間目は自習です』って言って、踵を返して、出ていったの」
「ええ、何それ」
「何それ、でしょ?」
「一時間目って数学だったよね? 冨永先生?」
「そう。冨永先生」

 冨永先生は女性の数学の先生で、年齢は二十代後半と若く、丁寧な言い方をすれば、ぽっちゃりしている。はっきり言ってしまえば——肥満体型だ。
「冨永先生の様子、どんな感じだったの?」
「ううん、なんかね。顔は無表情なんだけど、声が怒った感じだった。うん、確実に怒りを滲ませてた」
 つまり教室に入った瞬間、冨永先生はなぜだか急に怒って、授業を放棄したらしい。そして、自習の時間になった。

「どうしてだろ?」
 わたしがそうつぶやくと、隣の席の引退したばかりの元水泳部——笹本涼二ささもとりょうじが、
「氷室、お前が遅刻したことがわかったから、怒って授業のやる気失せたんじゃね?」
 と白い歯を見せながら訊いてくる。
「はあ? 冨永先生、わたしのこと何か言ってたわけじゃないんでしょ?」
「……言ってないけど」
「じゃあ、違うじゃん。わたしのせいじゃないじゃん」
 食い気味にそう言うと、笹本はひきつった笑顔でこう応えた。
「お、おう」
 ぷっ、この反応は少し愉快だ。笹本を黙らせるには、怒ってみせるのが一番効果的だと知っている。なぜなら、わたしも水泳部だったからだ。
 見ると、凛も口元に手を当てて笑いを堪えている。凛も同じく水泳部だった。だから、わたしたちは笹本の扱い方を十分、心得ている。

 わたしはカバンから、筆記用具に数学の教科書やノートなんかを出しながら、
「まっ、自習ってありがたいけどね。一時間目から数学って、正直頭に入んないし」
 と言った。
 凛は首を縦に振る。
「同感。昨日の最後の授業とかさ、あれ最悪だったよね」
 わたしは思い出して、つい眉をひそめる。
「ああ、四時間目の地学ね。確かに最悪だった」
「関口先生、雑談のつもりか知らないけどさ、宇宙ゴミとかの問題をすっごい説教くさく言ってくんの——なぜか高校生のうちらに。しかも極めつけは、『どうせお前たちも普段からポイ捨てとかやってるんだろ。もっと環境を大切しろっ』だって。その瞬間、キンコンカンコーンで授業終わり。後味、さいっあく」
「ね、意味わかんないよね。やってないし、そもそも宇宙とカンケーないじゃんってね」
「昨日は意味わかんない説教で終わって、今日はいきなり先生が怒って授業放棄って……このクラスどうなってんの?」
「うちら、先生からの評判悪いのかな」
 わたしは苦笑いを浮かべ、首を傾げた。わたしたちは、理系の学部を受験することを想定したクラスなのだ。

 わたしはふと眉間に皺を寄せ、腕を組む。
「でも、関口先生は通常運転だけど、冨永先生が怒ったのはよくわかんないよね。普段温厚だし、怒ったのなんて初めてじゃない?」
「でしょ? あたしもそれがすごい気がかり」
 そうしてわたしと凛は、授業終了を知らせるチャイムが鳴るまでの十五分間、自習なんてやらずに、「どうして温厚なはずの冨永先生はいきなり怒って、授業をせずに帰っていったのか」という疑問を二人で想像を巡らせていた。
 周りの迷惑にならないように、できるだけ小声で。でも、それらしい理由は一向に見つからない。

 夏期講習にも、授業と授業の間の十分間の休憩時間(準備時間?)がある。
 一時間目の自習が終わると、教室は打って変わって賑わいを見せ始める。みんな、教室から出て行ったり、友達と団欒したり、真面目に勉強に取り組んでいたりと、三者三様だ。

 わたしと凛の二人は、やっぱり一時間目が終わっても相変わらず「冨永先生の行動の謎」について、続けて意見を出し合う。
 どうしても気になるのだ、冨永先生に何があったのかを。いや、もしくは先生は何が気に障ったのか、だろうか。
「やっぱりさ、お腹痛くなったんじゃないの?」
 凛のその推理を、わたしは首を横に振って否定する。
「だったら後から戻ってくるはずじゃない? いきなり、『自習です』なんて宣言しないと思うけど」
「だから、もう授業どころじゃないくらいお腹痛かったのよ。後のことなんか考えられないくらい」
「そしたら、苦しそうにするはずだけどなあ。冨永先生、苦しがってたんじゃなくて、怒ってたんでしょ?」

 凛は不満そうに唇を尖らせて、
「じゃあ、沙希はなんだと思うの?」
 と訊く。
「ううん、やっぱわかんないなあ。わたし、その場にいなかったしなあ」
「安楽椅子探偵だって、その場にいないのに見事な推理しちゃうじゃん」
「いやいや、わたくし、ただの女子高生ですから」
「でも沙希、ミステリー大好きでしょ?」
「まあねえ。クリスティーとエラリー・クイーンはバイブルだよねえ」
「じゃあ、ミステリー好きな女子高生探偵、氷室沙希さん。誰もが納得のいく推理をお願いしますっ」
 凛のおどけた言い方がおかしくて、つい笑みをこぼしてしまう。それから、わざとらく溜め息をつき、
「はあ、しょうがないなあ。犯人、じゃなかった……冨永先生の立場になって、推理してみよっか」
 とわたしは言った。
「おっ、いいじゃんそれ。探偵っぽい」

 わたしと凛は席を立ち、廊下に立った。さっき冨永先生が出入りした、教壇側の引き戸はすでに開いている状態だ。
 だから、「ガラガラガラ」と敢えて声に出して、教室に入った。凛も私の後ろをついてくる。
 わたしは独り言のように、
「冨永先生は教室に入った途端に、おそらく何かを見つけて怒った。それは、授業をする気が失せるようなレベルの、怒りだった」
 とつぶやく。
「肝心なのはその何か、だよね」
 凛が背後で当たり前のことを言う。

「ううん……」
 しばらく周囲を見回していると、視界の隅にあるものを捉えた。それは、黒板にあった。
 向かって左上の隅っこに、白いチョークで刻まれている。ああ、こんな簡単なことだったんだ。むしろ、なんで今まで気づかなかったんだろう。
 わたしの足は、自然と黒板の方に向かう。
「ん、沙希、なんか見つけた?」
 凛が興味津々といった様子で訊いてくる。
「ほら、あれ」
 教壇に上がり、黒板の前に立つ。凛もわたしの隣だ。
 わたしは、黒板の左上の部分に書かれた文字を指差す。
「冨永先生が怒った理由、多分これじゃないかな」
「あっ……」

 そこには白いチョークで、「デブ」という二文字が書かれていた。
「なんて直接的な」
 凛が青ざめた顔で言う。それから続けて、
「最低、これ。一体誰が何のつもりで書いたの? こりゃ、冨永先生も怒るわ。授業放り出して当然だよ」
 わたしは素早く首を横に振る。
「これ、誰かが故意に書いたわけじゃないと思う」
「え、なんでそう思うの? だって、誰がどう見ても悪口じゃん」
「凛、思い出して。昨日の最後の授業さ、地学だったでしょ?」
「うん」
「関口先生、最後にどんな話してた?」
「宇宙ゴミの話でしょ?」
「宇宙ゴミを、英語に訳したら?」
「……スペースデブリ?」
「そう。スペースデブリ」

 途端に、凛の目が大きく見開く。ぱっちり二重が、さらにぱっちりになる。
「まさか」
「その、まさかよ」
 と、わたしは得意げに微笑む。
「昨日、関口先生、授業の最後の方に雑談の一環で、環境問題について熱心に喋ってたでしょ? スペースデブリとかについて。それでここの左上に、『デブリ』って三文字をチョークで書いてたんだと思う。
 で、授業終了後、日直当番がちゃんと黒板を消さなかったせいで、デブリの『デブ』の部分だけが、偶然にも残ってしまった。昨日の最後の授業は地学だったから、当然この『デブ』の文字は、翌日の一時間目になっても消えていない」
 凛がわたしの後を引き継ぐ。
「それでこの二文字を見つけた冨永先生は、自分が馬鹿にされていると勘違いして、怒って授業を放棄した……」
「真相は、これじゃないのかな」
「すっごいじゃん、沙希っ。あんた、ほんとに女子高生探偵だよ」
 わたしは口元に苦い笑みを浮かべ、必死に顔の前で手を振った。
「やめてよ、こんなのポアロだったら一秒で解いてるよ」
 そう謙遜しながら、黒板消しで「デブ」の二文字を消す。

 そう。この教室に、意図的にこの二文字を残す人間がいるなんて、そんなこと思いたくないじゃない。
 そろそろ次の授業が始まる。次は……英語。うん、読解力って大事。席に戻ったわたしたちは、英語の教科書にノート、単語帳といった参考書を用意する。

 凛が振り向いて、困ったような笑みで訊いてくる。
「それで、どうする? 冨永先生の誤解、解きにいく?」
「ううん……難しいね」
 わたしは小首を傾げて、
「この話をしちゃえば、『先生は太ってますよ』って遠回しに言っちゃうことになるんだもん」
 と言う。
「まあ、普通に考えれば、そうなるよね。じゃあ、やめとく?」
「……やめとこっか」
 隣から笹本が、
「何をやめるんだ?」
 と訊いてくる。
 わたしは、とっさに悪知恵が働いた。
「ねえねえ、笹本。あんた、冨永先生に、昨日の地学で習ったスペースデブリの話が面白かったって、話してきてくれない?」


 2000年代に放送されたネスカフェのCM、夏の朝、女子高生が列車に乗り遅れるという内容から想像を膨らませて書きました。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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