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短編小説「海水浴」

 予想通り、海水浴は退屈だった。

 と言っても、僕自身は泳ぐわけではないから、それは厳密には海水浴ではない。海水浴見学、といったところか。

 八月の容赦のない陽射しが真上から降り注く中、僕は一人、レジャーシートの上に三角座りになって、海で楽しそうにはしゃいでいる部活の仲間たちを眺めている。

 完璧に浮いている、と僕は強くそう思った。
 周りの海水浴客は誰もが水着姿で、砂浜にはビーチパラソルが目が痛くなるほどに乱立している。

 対する僕は、『New York City』とプリントされたTシャツに、短パンといった格好だ(もちろんここは千葉の御宿の海水浴場であって、アメリカのニューヨークではない)。

 部活の仲間には水着に着替えることを強く薦められたが、僕は断固として拒否した。  
 最初から遊泳する意思がないのに、そんなことは無意味だと思ったからだ。それに、高校生の僕は女子の前で自分の水着姿を見せることにいささか抵抗があった。
 完全に場違いだ。何度目になるかわからないが、僕はまたもや同じ結論に達した。

 書道部の合宿なんだから、書道にだけ向き合っていればいいのに、どうしてわざわざスケジュールに海水浴が組み込まれているのだろう?
 秋の展覧会には、『海水浴』と書かれた作品が規律よく並ぶのだろうか。

 南西の沖に佇む"黒い人影"から意識的に目を逸らしながら、浅瀬の方で仲間たちが青春している様子をなんの感情も持たず観察する。
 海の家で買った、一杯五百円もする法外な値段のアイスコーヒー(実際、大して美味しくないのだ)を飲み干すと、ついに何もすることがなくなっていた。

 寝よう、と僕は思い、レジャーシートの上に仰向けになり、帽子で顔を覆い、太陽光を遮断した。
 波の音、蝉の声、人々のざわめき、全ての雑音がゆっくりと溶け合い、遠くに消えていくような感覚があった。

 だけど誰かの足音が近づき、僕の隣に腰を下ろす気配がしたことで、辺りの雑音が鮮明に甦り、僕の意識ははっきりと覚醒した。

 帽子を取り、眩しさに目を細めながら体を起こして隣を見ると、そこに座っていたのは部活の仲間、同級生の佐々木由香だった。

 彼女と目が合うと、慌てて海の方に視線をやった。
 佐々木は薄手のパーカーを羽織っていたものの、その下は水着なのだ。水色。

「寝てた?」僕の機嫌でも伺うような様子で佐々木は訊いた。
「いや、寝てないよ」僕は正面の太平洋を見つめながら答えた。絶対に彼女の方は見ない。
「そっか。にしても退屈でしょ?」
「わかる?」
「一目瞭然」
「ふうん」
「瀬川君も泳げばよかったのに」
「泳がない」
「なんで?」
「海は眺めてる方が好きだから」僕は意図的に素気なく答えた。「佐々木は? もう泳がないの?」
「うん、もういいかな。もともとそんなに泳ぐの得意じゃないし」

 佐々木のことは決して苦手ではない。だけどこの状況下、僕は彼女と二人でいることに億劫だった。
 普段の佐々木とならなんら問題なく普通に話せるのに、今は気分が落ち着かなかった。気まずさすら感じていた。
 その原因を簡潔に説明できる。彼女の水着姿だ。

 額に浮かんだ汗をTシャツの袖で拭い、僕は腰を上げた。「飲み物買ってくるよ。佐々木は? 何がいい?」
「どこで買うの? 海の家?」
「コンビニ」
「ちょっと遠くない?」
「たかだか二、三百メートルの距離だよ」
「じゃあ、私も一緒に行っていい?」
「遠いんじゃなかったか?」
「だって、たかだか二、三百メートルの距離なんでしょ?」

 結局、断れなかった。
 財布やスマートフォンといった貴重品は各自、コインロッカーに預けてあるから、レジャーシートの上には盗られて困るような物は何もない。
 つまり、僕一人だけが海岸から離れられるような理由は一つも見つからなかった。それに、佐々木は後でどうしても僕に訊きたいことがあるらしい。

 酷暑の中、僕らは御宿駅の方向、北の方角に向けて歩き、数分後にはセブンイレブンに到着した。
 セブンでは僕はコカ・コーラを、彼女はアイスカフェラテを買った。
 店の前で、アイスコーヒーの氷が入ったカップに、ペットボトルのコーラを注いで飲んだ。

「それで? 訊きたいことって?」佐々木が一向に話す素振りを見せないため、痺れを切らした僕の方から訊いてみた。
 佐々木はストローを口から離し、遠慮がちに上目遣いで僕を見た。「うん……あのさ、もし違ってても、変なふうに思わないでね? 何こいつ、やば、とか」
「思わないよ」外房線を走る勝浦行きの電車の走行音を聞きながら、僕は答えた。

「瀬川君ってさ、あれ、見えてる?」
「あれ?」
「黒い人影」
 途端に、心臓が強く波打った。「佐々木にも、見えてるの?」
「そう、やっぱり。だと思った。多分、瀬川君にも見えてるだろうなって」
「どうして、わかった?」
「視線。瀬川君、私と話してる間、ずっと海の方見てたでしょ。でも絶対、"あれ"がいる方向だけは見ようとしなかった。不自然なくらい」
「よくわかったな。それだけの理由で」
 佐々木は小さく首を横に振った。「前から思ってはいたんだよね。私と同じで、霊感あるんじゃないかって」
「なるほど」また喉が渇き始めた気がして、僕はさらにコーラを口に運んだ。冷たいコーラを喉に流している間、駐車場に停まっていたマーチが発進し、国道を東に走っていくのを特に意味もなく見送った。

「佐々木は、あの黒い人影が何なのかわかる?」
「見当もつかない。ただ、近づいちゃいけないってことだけはわかるけど」
「まあ、明らかに危険そうではあるよね」
「一向に動かないのも気味悪くない? まるで時間が止まったみたいに」
「うん。それにあれは相当巨大だ。岸からずいぶん離れてるのに、上半身が見えてる。どう考えても……」
「おかしい」佐々木が後を引き継いだ。「これまで見てきた霊と雰囲気が全然違うんだよね。なんか、普通じゃないっていうか」

  海水浴場に戻ると、すぐにその異変に気づいた。
 近づいているのだ。海岸と黒い人影との間の距離が、確実に縮まっている。
 黒い人影はやはり全くと言っていいくらい動いていないが、それでも距離感の違いは明白だった。

 嫌な予感がした。
 佐々木と目が合った。彼女の表情を見ると、どうやら僕と同じ感情らしいことがわかった。
 僕らは、ほとんど同時に仲間たちがいる海に向かって駆け出していた。

 その夜、就寝前の自由時間、合宿先である御宿の寺の一室で、僕を含めた男子四人はトランプの大富豪で盛り上がっていた。
 貧民から大富豪に成り上がり、いち早く抜けた僕はスマートフォンを手に取った。

 ゲームやSNSの類いを一切やらない僕は、いつもの習慣で地元の新聞の電子版を読み漁っていた(もちろんお金を払って定期購読しているわけではない。無料で読める記事だけを読んでいるのだ)。

 そしてとある記事を見つけ、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
 見出しには、『御宿の海で水難事故発生、小学5年の女の子亡くなる』とあった。

 記事の内容を要約すると、こうだった。
 今日の午後二時頃、千葉県の御宿の海水浴場で、小学五年生の女の子が亡くなった。死因は溺死。
 女の子は海岸から二十メートル離れた地点で浮き輪に乗って遊んでいたが、遺体はそこからさらに百メートル以上沖に流されていた。発見された浮き輪は破れた状態だった。警察は事故の詳しい原因を調べている。

 僕は立ち上がり、ただ黙って部屋を後にした。
 静かで新鮮な外の空気は、僕の乱れた脈拍を落ち着かせてくれた。ただその代償に、体の数箇所を蚊に刺される羽目になった。

 夜空の星を見上げながら、同じ箇所を何度も掻いていると、境内を歩く足音が背後から聞こえてきた。
 振り向くと、暗がりの中から現れたのは佐々木だった。
 日中のポニーテールだった髪型はセミロングに変わり、服装はタンクトップとハーフパンツに変わっている。

「佐々木」
「その様子だと、瀬川君も見た? ニュース」恐る恐るといった様子で佐々木は訊いてきた。
「うん、ネットで。佐々木も?」
「そう。私もネットで」佐々木は小さく頷いた。「どう思う?」
「え?」
「水難事故、どうしてもあの黒い人影と関係があるんじゃないかって気がして」
「どうかな」
「だって、離岸流が発生したわけでもないんだよ? それなのに岸からあんなに離れた距離まで流されるのって、どう考えても変じゃない?」
「確かに、ね」僕は首肯した。「発見された浮き輪は破れた状態だった。そのせいで女の子は溺れることになったわけだけど、やっぱりこれに関しても気がかりだ」

 佐々木は視線を僕から自分の足下に落とした。「助けられたかもしれない、私たちなら」
「それは無理だね」
「なんで」佐々木は顔を上げ、僕を見つめた。心なしか、彼女の表情からは少し憤りを感じられた。
「あいつらを説得するだけでも大変だったんだ。潮の流れが変だから、これ以上泳がない方がいいとかって適当なこと言って。まあ、最終的には無理矢理、強引に連れ出す形になったけど」僕は顔の近くを飛んできた蚊を振り払った。「つまり、身内を岸に上がらせるだけでもあれだけ苦労したのに、これが赤の他人ならどうなってたと思う? 十中八九、まともに取り合ってくれないどころか、かえって変質者扱いされるだけだ。あの時、あの場に何百人もいた海水浴客全員の遊泳を中断させるなんてことは、まず不可能なんだよ。だから、どうやっても僕らに女の子は救えなかった」

 佐々木は強張った顔で僕を数秒間見つめた後、ゆっくりと俯いた。「そうだよね……そんなの、理想論って言うか、無謀って言うか、最初から無理な話だよね」
 僕は敢えて肯定しなかった。だから黙っていた。佐々木の女の子を助けたかったという気持ちに関しては、否定したくなかったからだ。
「私、部屋に戻るね。おやすみ」
「あ、うん。おやすみ」

 佐々木が夜の闇に消えていくのを見届けた後、僕はもう一度夜空を見上げた。

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