見出し画像

九キロは長すぎる(9)

「姉は自殺なんかじゃありません。絶対に」
 駅前のファミレス——ディグジーズのボックス席で僕たちと対座すると、水本玲奈は開口一番、力強い声でそう言った。

 おさげを三つ編みにしており、顔立ちは高校一年生よりもずっと幼く感じる。
 姉に似ているかどうかというと、わからない。似ているような気もするし、似ていないような気もする。

 しかし体格が華奢で、背が低いのは、姉の水本小百合と共通していた。
 セーラー服を着た姿は全体的に子供っぽい印象を受けるが、僕たちに向けた眼差しには、どこか決然とした意志が込められているように感じられる。

 立花が優しげに訊く。「どうしてそう思うのか、聞かせてくれるかな?」
「私、姉と約束してたんです。バレンタインのチョコレート、一緒に作ること。駅前の百貨店で、材料を一緒に買いに行くことも」
 バレンタイン。そうか、もうそんな季節になるのか。

「姉が約束を破ったことなんて、これまで一度だってなかった。『楽しみだね』って、二人で笑顔で話してたんです」
 言って、水本玲奈は顔を曇らせ、「だから、こんな形で姉が約束をすっぽかして、自分からいなくなっちゃうなんて、ありえないじゃないですか……」と今にも消え入りそうな声で言った。
「じゃあ、お姉さんは誰かに殺されたかもしれないって、考えてる? 比喩でも何でもなく、そのままの意味で」
 水本玲奈は深く頷いた。「はい。考えています」
「わかった。何か他にも、そう思う根拠があったりするかな?」

 立花がそう尋ねると、水本玲奈は小首を傾げ、「わからないですけど、なんとなくわたし、姉には彼氏がいたと思ってるんです」と答えた。
 彼氏。妹の口からもその単語が出てくると、その可能性はますます現実味を帯びてくる。
「実際に彼氏を見たとか、そういうわけじゃないんですけど、以前から姉の行動から、そういう存在を薄々と感じていたんです」
「それは、例えば?」

「それこそ、姉が亡くなった金曜日のことです。亡くなったのは、正確に言えば土曜日ですけど。あの日、姉は夕方、『友達と遊びに行ってくる』って言って、家を出ていったんです。
 でも、私それ、本当は彼氏に会いに行ったんじゃないかと思ってるんです。だって、ばっちりメイクしてたし、お気に入りの服まで着てたし。それに、やたらと嬉しそうだったし。絶対、男に決まってます。そしてその日を最後に、姉は帰ってこなかった。ご存知でしょうけど、部屋には遺書は残されていませんでした」
「なるほどね。つまり君は、お姉さんを殺したのは……」と立花が遠慮がちに訊こうとすると、
 水本玲奈が断言した。「その相手の男が、姉を殺したと思っています」
 僕たちの間に、重苦しい沈黙が降りる。

 僕は腕を組み、おもむろに天井を見上げた。
 実際に水本に彼氏がいたと仮定して、水本が亡くなった日に会っていたのがその人だとするなら、確かに水本の死に関わっている可能性は否めない。
 直接的な関わり方か間接的な関わり方かは定かではないが、いずれにしろその日、何らかのトラブルがあったのだろう。

 僕はグラスの水を喉に一口流すと、水本の妹に尋ねた。「最近、家族で横浜のフランス料理店に行ったことはある?」
「フランス料理店?」
 水本玲奈はきょとんとした顔を浮かべ、すぐにかぶりを振った。「ないです、ないです。そもそも家族で横浜なんて、もう何年も行ってませんし」
 自然と、立花と視線が交わる。

 やはり下村さんの言う通り、水本は嘘をついていた。家族とは行っていなかったのだ。
 妹の証言により、水本小百合は本当は『アントワーヌ』に彼氏と行ったのではないかという説がこれで補強されたことになる。

「何ですか? 横浜のフランス料理店が、姉のことと何か関係あるんですか?」
「いやいや、そういうわけじゃないよ」
 立花が慌てて否定する。「ごめんね、変なこと訊いて」
 水本玲奈は僕と立花のことを疑わしそうな目で見ていたが、やがて諦めたのか、視線を外し、アールグレイに口をつけた。

「警察には、彼氏のことは話したの?」
「もちろん、話しました」と言って、水本玲奈は首を縦に振る。「でも主観ばかりで、客観的な根拠のないわたしの言うことなんて、全く聞き入れてくれなかった。
 警察は、『金曜日の深夜、水本小百合は友達と別れた後、自宅のある七里ヶ浜にほど近い小動岬こゆるぎみさきの崖から、自ら身を投げて自殺を図った』なんていう判断をあっという間に下したんです。その『友達』が誰なのか、ろくに調べもせずに。こんなふざけたことがありますか?」

 立花は天然パーマの髪を掻きながら、「所詮、警察もお役所仕事だからね」と言った。「できるだけ自殺や事故死で処理したがるんだろう。たとえ、殺人の疑いがあってもね」
「殺人犯を、平気で野放しにするのが警察なんですか」
「まあ、あまり期待しないのが賢明だよね」
 そう言った立花の声は、やけに冷ややかに聞こえた。

「そのずさんな捜査だと、結局、検死は行われなかったんでしょ?」
 立花が訊くと、「検死?」と水本玲奈が訊き返した。
「えっと、解剖のこと」
 まあ、ファミリーレストランで発するのに適したフレーズではない。水本玲奈は少しショックを受けたように表情を歪めた後、はい、と小さく頷いた。

「姉の遺体は、葬儀後に火葬されました。担当の刑事さんが言うには、外見に不審な点は見当たらなかったみたいだし、もし警察の人に提案されても、親は解剖なんて絶対拒んでたと思います」
「そうだよね」
「あ、でも刑事さんから、死亡推定時刻は教えてもらいました。死後硬直や角膜の混濁具合から、大体、土曜日の午前零時から二時までの間だろうと」
「午前零時から二時までの間か。二時間の振り幅があるんだね」と立花が率直な感想を述べ、メロンソーダを啜った。
 さすがの立花も状況に配慮したのか、ここでは食べ物を注文することはしていない。

 水本玲奈はアールグレイのカップを口に運び、話し始める。「わたし、姉とは歳が一個しか離れていなかったから、姉妹というより友達みたいな関係性だったんです。だから、姉が私に彼氏の存在を隠してることに気づいた時は、結構ショックでした。どうして話してくれないんだろう? って。でも、聞き出す勇気がなかった」
「わかるよ」と立花が同調する。「なかなかそういうのって、聞き出せないものだよね」

 ボックス席の空間に、幾許かの沈黙が流れた後、
「少し話は変わるけど……お姉さんに変な電話がかかってきたとか、そういうことってなかったよね?」と僕は敢えて否定の形で訊いてみた。
「変な電話? 何ですか、それ」
「いや、なかったならいいんだ」

 予想はしていたけれど、脅迫電話の件はやはり妹にも相談していなかったか。
 妹に知られれば、それが親に伝わり、そして警察に通報が行く。そういうプロセスを水本は想像し、恐れたのだろう。

 またしても水本玲奈は、懐疑的な目でこちらを見つめてくるが、僕が話すつもりがないことがわかると、大きく溜め息をついた。
「電話と言えば、姉の遺留品の中にスマートフォンはなかったんです」と水本玲奈は不満顔で言う。「警察は、波に流されんだろうと言ってますけど、わたしは、犯人が自分と姉との関係を隠すために、持ち去ったんだと考えています。証拠隠滅ってやつです」
「なるほど。確かにそういう解釈も成り立つね」と立花が肯定した。「君のお姉さんが殺されたんだとすれば、犯人がスマホを持ち去るという行動は自然だと思う」

 おそらく立花は、水本玲奈に気を遣ってそう言っているのだろう。
 が、あくまでも僕も立花も、「水本は殺されたのかどうか」という論点に結論を出すことについては、まだ保留していた。
 現段階では何とも言えないのだ。水本の携帯が見つからなかったからといって、それが他殺を裏付ける証拠とはならない。

 立花はメロンソーダを片手に、「何か、お姉さんが深刻なトラブルに巻き込まれていたんじゃないかって思うような、心当たりってある?」と訊いた。「あるいは、そういう相談を受けたりしたとか」
 水本玲奈は、ゆっくりと首を横に振った。「ないんです。姉って、そういう愚痴とかこぼすようなタイプじゃなかったし、何か悩んだり思い詰めたりするような様子があったとしても、家族に話そうとしなかったんです。全然話してくれなかった。むしろ、わたしの方が姉に色々と相談しちゃうくらいで」
「そっか」

 これまでの関係者による証言から推察するに、どうやら水本小百合は秘密主義の傾向にあったらしい。
 では、水本が抱えるその「秘密」とは一体何なのか。

「わたしが、姉のことでお話できることは大体このくらいです」と水本玲奈が僕たちから視線を逸らさずに言った。「お二人は、姉の彼氏が誰なのか、そしてなぜ姉は死んでしまったのか、真相を突き止めてくださいますか?」
 すがるような目を、僕と立花に向けてくる。
「最初からそのつもりだよ」と立花は微笑んで答えた。「なあ、草野くん?」
「ああ。君のお姉さんの無念は、僕たちが必ず晴らすから」

 そう言うと、水本玲奈は泣き笑いに似た表情を浮かべ、「期待してます」と言った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?