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計画的トマトスープ③/④


 穂積と加納と同盟を結んでから、一週間が過ぎた。

 今は八月の上旬で、それは僕がこのアルバイトを始めてから、二週間以上が経過したことを意味する。
 そしてその間に、環境活動家による絵画攻撃は一度たりとも行われていない。相も変わらず。

 一階のラウンジ、窓際のテーブル席で、今日も僕たちはいつものように、コンビニで買った昼食を摂っていた。
 窓の外の中庭には落葉樹が豊富に林立しているが、昼の時間帯になると蝉の鳴き声がぱたりと止まるため、静かな環境で食事にありつくことができる。

 また、外の気が滅入るような暑さとは違い、ここは適度に冷房が効いている。そして窓は西向きのため、日差しも入ってこない。極めて快適だ。
 平日だが、二十ほど配置されたテーブル席はその半分以上が埋まっており、座っているのは僕たちよりも年上ばかりで、比較的女の人が多かった。

「展覧会始まって、もう二週間だよ?」正面の穂積が唐揚げ弁当を口に運びながら、不満そうに言う。「本当に襲撃なんてあるのかな? ないならないで、それが一番いいんだけどさ。かと言って、それはそれでなんか拍子抜けよね」
「仕方ない。僕らにできることは」僕は弁当の白身魚フライを割り箸で掴み、「ただ待つことだけだよ」と言って口に放り込んだ。
「そもそもさあ」穂積が眉をひそめる。「毎回思うんだけど、みんなで呑気に食事なんかしてていいわけ? 誰か一人でも、展示室で待機してた方がいいんじゃない?」
「いいんだよ」僕は咀嚼しながら、断定的に言った。「問題ない」
「その根拠は?」
「勘……かな」
「非論理的ね」

 僕が予知能力を持っていて、その能力が発動しない限り、ルネ・マグリットの作品は安泰だとわかるからなんて、口が裂けても言えるはずがない。
「あ、でもさ」穂積の隣、加納がおにぎりの包装フィルムを剥がしながら言った。「展示室に自由に出入りできるようになったのは、すごいことだよね。何回入っても無料だなんて、夢みたい」
「ね」穂積が笑みをこぼし、こくりと頷いた。「外岡君の叔父さんの心意気に感謝だわ。おかげで私、作品のイメージがだいぶ固まってきたもん」
「私も、私も」

 一週間前、僕の叔父である外川登に、穂積と加納が仲間に加わったことを話すと、叔父は快く二人分のフリーパスを渡してくれた。
 確かに、高校生の入場料が千円もする展覧会に無料で出入りできるようになったことは、美術部員の二人からすれば夢のような話なのだろう。

「外川君、ありがとね」加納が屈託のない笑みで言った。
「いや、別にそれくらいは」僕はさっと目を逸らして、ミネラルウォーターのキャップを外しながら答えた。「まあ、それがなきゃ、仲間になった意味がないしさ」
「相変わらず、冷めてるわね」穂積がびしっと僕に割り箸を向ける。「せっかく美女が感謝の意を述べてくれてるんだから、素直に受け止めなさいよ」

 穂積の言う通り、加納は確かに綺麗だ。クラスではあまり目立つ方ではないが、それこそ印象派の絵画に出てきそうな雰囲気をまとっていると言っても、過言ではない。
「やだ、それともあれ?」穂積がやけに芝居がかったように、口元を手で隠した。「照れ隠しってやつ?」
 からかうような視線を寄越してくる穂積を僕はしっかり無視して、ミネラルウォーターを一定のペースで喉に流し込んだ。
 水を飲んでいる間、穂積はしつこくからかいの言葉を投げかけてきたが、僕はそれを聞こえていないふりをしてやり過ごした。
 対する加納は顔を赤らめ、穂積の二の腕を叩いて抗議していた。

 それから暫くして、適度に腹が満たされ、テーブルの上の食事がほとんど片付いた頃だった。「それ」は何の前触れもなく、突然やってきた。
 予知能力が発動したのだ。
 僕の脳内に、壁に掛けられた絵画に赤い液体が振り撒かれる光景が、閃光のように飛び込んできた。
 見えたのは一瞬だったが、それが環境活動家によるトマトスープ攻撃であることは自明だった。

 僕がぱっと顔を上げると、穂積と加納は少し驚いたように僕を見返した。
「どうしたの?」穂積が目を丸くして、怪訝そうに尋ねる。
「街は暗いけど、対照的に空は明るい作品……タイトルは何だった?」
「えっと、『光の帝国』?」加納が首を傾げて答えた。
「それだ」僕は椅子から立ち上がり、脇目も振らずに駆け出した。
「ちょ、ちょっと、外川君?」後ろから、穂積の慌てた声が聞こえる。「どうしたのよ、急に?」
 僕は穂積の呼びかけには答えずに、二階の展示室に急いだ。
 間違いない。今から数十分以内に、マグリットの作品が攻撃される。

「本当なのか?」展示室の一隅、叔父の外岡登が斜め前方を見つめながら訊いた。その目線の先には、マグリットの作品、『光の帝国』がある。
「間違いなく」僕もポケットに手を突っ込み、『光の帝国』の前に立つ観覧者たちを視界に入れながら答えた。「僕の予知が外れたことはないのは知ってるでしょ? もちろん、その気になれば未来を変えることができることも」
「わかった」叔父が素早く頷いたのが、視界の端で見えた。

 ちらりと振り向くと、数メートル離れた場所から、穂積と加納が不服そうな様子で僕たちの方を見ていた。
 二人には聞こえない位置で、僕と叔父だけで会話を交わしていることが気に食わないのだろう。穂積に至っては、両手を腰に当ててじっとこちらを睨んでいる。
 二人の服装は、穂積がグレーのTシャツにデニム、加納がキャミソールワンピースだ。もちろん、二人は違うことはわかっている。
「実行犯の姿は見えたか?」
「一瞬だったから、ちゃんとは見えなかった。後ろ姿で、群衆の中に紛れてたし」僕は壁に背中を預けて答えた。「でも二人いて、両方とも白いTシャツを着てた。性別と髪型まではちょっと……わからなかったけど」
「いや、それで十分だ」叔父の声はどこか嬉しそうだ。「ありがとう、歩」

 叔父との密談が終わると、僕は二人のところへ向かった。
 二人は『光の帝国』から真っ直ぐ、三、四メートル後ろにいる。
 僕が近寄ると、不機嫌そうな顔の穂積が、早速口を開いた。「叔父さんと何話してたの? うちらに一体何を隠してるわけ?」
「悪いな、機密事項なんだ」
「外川君、私たち仲間じゃなかったの?」加納が唇を尖らせ、僕の顔を覗き込むようにして訊いてきた。
 おそらく、普通の男子なら狼狽しているところだろうが、僕はそうはいかない。「仲間の間にも、最低限のプライバシーは必要だよ」と澄ました顔で言った。
「何がプライバシーよ」穂積は軽蔑を込めた眼差しを僕に向けてきた。「急に裏切られた気分なんだけど」

 僕は無言で肩をすくめ、ゆらゆらと首を横に振った。
「と言うかさ」穂積が鋭い声で言う。「どうして『光の帝国』が攻撃されるってわかるわけ? それも、今から数十分以内に」
「二人は有神論者?」
 僕がそう尋ねると、穂積と加納は困惑顔になった。
「神の啓示ってやつだよ」
 侮蔑。今の二人の表情を言い表すのに、ぴったりの言葉だった。

 それからの数十分、僕たちはそれぞれの配置について、『光の帝国』の前に立つ観覧者たちを後ろから注視していた。
 穂積と加納には、白いTシャツを着た二人組を警戒するようにと伝えてある。二人はあまり納得がいかない様子だったが、僕はなんとか言葉巧みに言い包め、二人を従わせることに成功した。
 立ち位置としては、僕が左手、加納が正面、穂積が右手だ。背後から三方向にわたって監視することで、実行犯と思わしき人間を特定しやすくするための作戦。

 時間帯のせいだろうか。先ほどよりも観覧者の数は着実に増し、その中に白いTシャツを着た人の姿がちらほらと散見された。これでは、実行犯との判別は困難だ。
 それにこの人だかりでは、事前に犯行を阻止することは難儀になってくるかもしれない。実行犯が人だかりの中に身を潜ませれば、彼らの動きを見定めることは容易ではないからだ。

 僕は絵から少し離れた壁際で待機している、眼鏡をかけたストライプ柄のワイシャツ姿の男、外岡登に視線をやった。
 叔父はいかにも真剣な面持ちで絵の方向を観察しており、当然、僕の視線には気づかない。
 僕は思案した。もしかしたら、叔父があんな位置に立っていることを、誰かが不審がるかもしれないということを。そしてその誰かが実行犯の場合、最悪、犯行を中止するかもしれない。

 この作戦は失敗に終わるかもしれない。
 その可能性が、僕の中で現実味を帯び始めた時だった。
 ある一人の男性が、入場券を落としたか何かでふと身を屈めたことで、一瞬だけ奥の様子がわかった。
 幸運にも、そのタイミングは完璧だった。人と人の隙間から、白いTシャツを着た人間がカバンから何かを取り出す動作が、ちらりと確認できたのだ。

「叔父さん!」僕は咄嗟に叫んだ。
 その直後、叔父は人だかりを押し退けて強引に進み、『光の帝国』の前に立ちはだかった。
 叔父が両手を横に広げて絵の前に立ったのと、叔父に赤い液体がぶつけられたのは、ほとんど同じタイミングだった。
 べちょっ、という気の抜けるような音と同時に、女性のきゃっ、という甲高い悲鳴が聞こえた。
 トマトスープを二度ぶつけられたストライプ柄のワイシャツは、不憫にも赤く染まったが、-僕の方向から見る限り-どうやら、『光の帝国』は無傷で済んだようだった。

 その後すぐに、三、四人の警備員が現場に駆けつけ、二人の環境活動家はあっさりと連行された。
 二十代後半ほどの若い男女で、白いTシャツには『SUSTAINABLE HERO』というロゴが入っていた。犯行が失敗したことに絶望したのか、二人は全く抵抗の姿勢を見せなかった。
 周囲は突然の出来事に一時騒然となっていたが、やがて叔父の行動を讃えるように、ぱちぱちと拍手が巻き起こった。
 叔父は照れくさそうに何度も頭を下げながら、同僚と思わしき女性に連れ添われ、展示室を後にした。

 騒ぎが徐々に落ち着きを見始めた頃、「信じらんない」と僕の隣で、穂積がつぶやいた。「外岡君って一体何? 超能力者? 完全に予言的中じゃない」
 加納も言葉には出さずとも、僕を好奇の目でじっと凝視している。
「さあ、白状なさい」穂積が片手を腰に当て、僕に迫ってくる。「どんなトリックを使ったの? ほら、黙ってないで言いなさいよ。また神の啓示とかふざけたこと言ったら、許さないわよ」
「かつてイエス・キリストは、僕たち人間の罪を赦してくれたんだって」
 僕がそう言った瞬間、頭頂部に強い衝撃が走った。穂積に頭を引っ叩かれたのだ。

「ちょっと、二人とも」頭を押さえていると、加納の焦ったような声が聞こえてきた。「あれ、見て」
 加納が指差した数メートル先には、何も掛けられていない、青い壁がある。
「壁、がどうしたの?」穂積が尋ねる。
 加納が眉根を寄せた。「あそこ、本当に壁だけだった?」
「え、どういうこと?」
「絵が掛かって気がするんだけど。それに、なんかあそこだけ変に広くない?」

 加納の指摘通り、確かにその壁の部分だけが、不自然なくらい隙間が空いていた。
 他の作品は等間隔に並べられているのに、そこだけが作品と作品の間の距離が広がっており、均等性を欠いている。まさか。
「盗まれた……?」僕は自然と口に出していた。
 加納は浅く頷いた。「私もそう思う」
「いつの間に……」僕は口元に握り拳を当てた。「まさか、さっきの騒動に乗じてか」
「あり得るわね」穂積が首肯する。「うん、さっきまではちゃんと掛かってた気がするもん」

 僕たちは顔を見合わせ、自然とそこに絵が掛けられていたはずの、青い壁のそばまで駆け寄った。
 そこには、プレートだけが侘しく残っていた。『ルネ・マグリット ゴルコンダ』と書かれている。
「『ゴルコンダ』……」穂積が壁に手を当てて、つぶやいた。
「まずいな」僕は舌を鳴らした。「くそっ、じゃあさっきのは陽動だった?」
「反省と推論は後」穂積がぴしゃりと言った。「沙彩、外川君。手分けして探すわよ」
「え、すみれ、本気?」
「当たり前でしょ」穂積が眉を吊り上げた。「さっきの混乱を利用して盗まれたんだと仮定すれば、時間的にまだ館内から出ていない可能性はある。それに賭けるしかない。盗んだ犯人から、『ゴルコンダ』を取り返すのよ」

 眼鏡の奥の、穂積の目は本気だった。そこには強靭な意志が感じられた。
 だから僕も、腹を括ることにした。「わかった」
 加納もこれまでにない力強い声で、「やるしかないね」と言った。

 そうして僕たちは、急いで展示室を後にした。盗まれた絵画を取り戻すために。

④へつづく

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