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計画的トマトスープ②/④


 五日後、夏休みを迎えると同時に、僕の奇妙なアルバイトが始まった。

 最寄りの駅から地下鉄に乗り、上大岡駅で京急本線に乗り換え、午前九時過ぎ、僕は金沢文庫駅に降りた。
 神奈川県立美術館は、横浜の中心部からは外れた金沢区に位置しており、人の往来が激しい都会が苦手な僕としては、それなりに都合が良かった。

 駅西口から出て、強い日差しに閉口しながら北に数百メートル歩いていくと、閑静な住宅地の中に目的の建物が姿を現した。
 ガラス張りの、近代的な外観が特徴的な美術館だ。背後には小高い山がそびえ立っていて、どこか自然と調和したような趣きを感じる。そういえば、五日前にも同じ感想を抱いたような。
 開放的な吹き抜けのエントランスホールを通り、エスカレーターで二階に移動する。
 入口で、形だけの簡単な手荷物検査を済ませ、事前に叔父から受け取っていたフリーパスで、広々とした展示室に入った。

 天井が高く、静謐な雰囲気の展示室内には、数多くの観覧者がいた。
 初日ということもあってか、平日の午前中であるにも関わらず、マグリット展は予想以上に盛況していた。
 金色の額縁に飾られたマグリットの作品が青い壁にずらりと並び、どの絵の前にも人だかりができている。

 せっかくだからと、僕も作品を何点か鑑賞してみたけれど、ものの数分で飽きてしまい、やがて壁際のソファに腰を下ろした。
 結局のところ、予知能力が発動しなければ自分にできることは何もないのだ。犯行現場となるかもしれないこの場所で、環境活動家の攻撃に備えて待機しているしかない。
 いや、そもそもは本当に環境活動家がやってくるのかすらわからない。
 僕はそのことを強く意識しながら、マグリットの絵を鑑賞する人々を観察していた。

 そうしてアルバイト初日は、特に何の問題もなく終了した。
 僕は閉館時間の午後五時まで、昼食を除いたほとんどの時間を、ソファで小説の続きを読んで過ごしていた。
 たまにちらっと本から顔を上げて、観覧者たちの方に目線をやっても、カバンから唐突にトマトスープを取り出して、その中身を絵画にぶちまけ、自分たちの声明を声高に発表しそうな人は、誰一人として見受けられなかった。

 そして初日にして、早くも僕は実感していた。
 落ち着いた空間で本を読んでいるだけで、高校生としては破格の報酬が手に入るのだから、これ以上割りのいいバイトは他に存在しないと。

 ただ一点、少しだけひやりとする出来事があった。
 昼過ぎに、同じ高校の女子二人の姿を見かけたのだ。
 彼女たちは二人とも美術部で、一方の僕はミステリー研究会(実質、幽霊部員だが)。接点と呼べるものは同じクラスに所属しているということくらいで、決して友達と呼べるような存在ではない。
 二人が僕の前を通りかかった時、僕は気づかれないように反射的に顔を下に向けた。なんとなく自分がここにいることを、自分を知っている人間に知られたくなかった。

 それから二日目、三日目と何事もなく平穏無事に過ぎていった。
 翌日の月曜日は休館日で、自分でも驚くくらい家で堕落的な一日を送った。
 そして開館時間ギリギリに到着した火曜日も、やはり環境活動家による絵画攻撃は行われなかった。

 そうしてアルバイトが始まってから、十日が経過した。
 その間、美術館では新聞の一面を飾るような出来事は何一つ起こらず、至って平和な環境が維持されていた。僕はこの十日間で、本を十二冊読んだ。
 極めて合理的で充実した時間を過ごせていることは、言うまでもなかった。

 だけど事件は、遂に七月の最終日に起こった。
 事件と言っても、それは本来想定していたような種類の事件ではなかった。
 いつものように、一階のラウンジで昼食を済ませた後、展示室の壁際のソファで本を読んでいると、頭上から声をかけられた。「外川君?」

 顔を上げると、初日に見かけた美術部の女子二人が、すぐそばで僕を見下ろしていた。名前は、ショートボブの気の強そうな眼鏡が穂積ほづみで、ハーフアップのゆるふわ系が加納かのうだ。
 性格の印象とは対照的に、身長は加納の方が穂積よりも十センチ以上高く、男子の平均身長に近いほどある。

「やあ、奇遇だな」僕は平静を装いながら、便宜的な挨拶を口にする。
「ねえ、なんでここにいるわけ?」穂積は僕の挨拶をしっかり無視して、問いただすような口調で訊いてきた。
「なんでって、絵画鑑賞に決まってるだろ」
「ソファに座って本を読んでることが、絵画鑑賞?」
「今はたまたま……気分転換で」
「朝からずっと、気分転換?」
「見てたのか」
「ほら、やっぱりそうなんだ」穂積は嬉しそうに、白い歯を見せる。「ね、言ったでしょ、沙彩。絶対そうだって」
 加納は困ったように、苦い笑みを浮かべている。

 ハメられた。
 しかし、マグリットの絵が展示された展示室にいるからといって、マグリットの絵を鑑賞しなければならないという規則はない。
 だから、僕がこのソファに座って優雅に読書に講じていても、それについて責められるいわれは何一つないはずだ。そう。僕の勝手だ。

 僕は本をパタンと閉じて、腕を組んだ。「それで? だったらなんなんだ?」
「あら、開き直った」穂積がわざとらしく、赤いフレームの眼鏡の奥の目を見開いた。「嘘がバレたから方針転換したのね」
「ちょっと、すみれ」加納がなだめるように言った。「そんな言い方しなくても」
「何よ、沙彩だって疑ってたじゃない。絶対おかしいって」
「私はただ……どうしてかなって」
「あのねえ、それが疑うってことなのよ」

 僕がこほんと咳払いをすると、二人はさっとこちらに視線を向けた。
「揉め事なら他所でやってくれないか? ミステリーの続きが気になって仕方ないんだ。もうちょっとで犯人がわかるんだよ」
「私がその犯人当ててあげようか」穂積はさっと僕を指差した。「犯人は主人公よ」
「ふざけるなよ」
「あ、あのね、外岡君。私たち気になってるの」加納が僕の機嫌を伺うように、遠慮がちに言った。「どうして外川君は、作品を観ることもなく、ずっとここで読書してるのか」
「それは、ここが快適だからさ」僕は数メートル前方の、マグリットの絵を一瞥して言った。
「わざわざ観覧料払ってまで?」穂積が間髪入れずに訊いてきた。「別に一階のラウンジでもいいじゃない。いや、そもそも本を読むなら、図書館の方がずっと快適なはずだけど」
「そんなの、僕の自由だろ。それに、叔父がここで働いてるから、フリーパスを持ってるんだ。だからお金は関係ない」

 僕がそう言うと、穂積は顔をしかめた。「ええ、ずるい。うちらなんて、ちゃんとお金払ってるのに」
 当たり前だ。
「うちらはね、秋のコンクールに出展する作品のインスピレーションを得るために、ここに来てる。正当で模範的な動機よね」穂積は口元に薄い笑みを浮かべた。「でもね、外岡君が絵画鑑賞のためにここに来てるとは、どうしても思えないの。何か、他に理由があるんじゃないかって」
「へえ、そう思う根拠はあるのか」
「根拠はない」穂積の口調はあくまでも冷静だ。「実際、初日に見かけた時は、特になんとも思わなかったし。でもこうして今、初日と同じようにソファに座ってただ本を読んでる姿を見た時は、さすがに疑問が浮かんだ。少なくとも、純粋な絵画鑑賞のためではないことは明白。じゃあ、なんのためにここで本を読んでるのか? 何かを『待ってる』んじゃないかって考えに行き着くのは、自然な流れだと思わない?」

「それはつまり、一体どういうことなんだろう」僕は躍起になって、わざとおどけた調子で言ってみた。
「いい? 外岡君は、環境活動家の攻撃に備えているのよ」穂積は得意げに、口の端を持ち上げた。「先週、ニュースで見たから知ってるの。犯行予告がこの美術館に届いてるってね。実際、手荷物検査も実施されてる。そしてたった今知った情報、外岡君にはここで働いている叔父さんがいるって事実のおかげで、確信できた。外川君は、叔父さんに頼まれてここにいるの。環境活動家による、トマトスープ攻撃を食い止めるためにね。どう? 当たってる?」
 僕は穂積の鋭い推理力に、素直に感心していた。
 それから深い溜め息をついて、「その通りだよ」と言った。穂積の容赦のない追及をかわすのに、なんだか面倒になったのだ。

「すみれ、すごいよ。やるじゃん」加納が控えめな拍手をした。
「でしょう?」
「なんなんだ?」僕は苦々しく口元を歪めた。「人の心でも読めるのか?」
 穂積が悪戯っぽく笑う。「ミステリーが好きなのは、外岡君だけじゃないのよ」
「それで?」僕は降参といったふうに、肩をすくめた。「僕の目的を暴いた目的はなんだよ?」
「それ、うちらも手伝ってあげる」
「はあ?」
「マグリットの絵が攻撃されるなんて、美術部員として許せないの」穂積は打って変わって真面目な顔つきになり、人差し指で眼鏡を押し上げた。「だから、絵画攻撃を食い止めるのを、手伝ってあげるって言ってんの。こういうのって、一人でも多く仲間がいた方が有効的だと思わない? ね、沙彩」
「うん、うん」加納は二、三度首を縦に動かした。「外岡君、どうかな?」

 僕は腕を組みながら少し考えた後、「報酬は出ないぜ」と答えた。

③へつづく

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