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短編小説「僕は知らないし、気にしない」【前編】

 スーパーマーケットで缶ビールとチョコレートバーをそれぞれ一本ずつパクった後、僕はバイクに乗って〈ブルームーン〉に向かった。

 〈ブルームーン〉はサウス・ロンドンにある、どこにでも見かけるようなありふれた地元のバーで、その代わり僕のような十七歳の未成年が滞在するにはあまり目立たない、極めて好都合な店だ。

 店の前の舗道にバイクを停め、空になったバドワイザーの缶をクリケットの投手になった気分で、通りの反対側に豪快に投げ捨てた。
 それは空中で弧を描いた後、駐車中のBMWのボンネットの上でバウンドし、カラカラと音を立てて地面に転がった。
 すぐ近くで、七十歳くらいのお婆さんが非難めいた眼差しで僕のことを見ていたから、彼女に向かってニッと白い歯を見せてやった。
 最高に爽やかな僕の笑顔は、見る者みんなをハッピーにするのだ。

 時間は夜の七時過ぎ。趣味の悪いネオンの広告に照らされる階段を下り、地下一階にある店の薄汚いドアを開いた。
 店内は陰気で暗く、客の数は七、八人ほど。そしてジュークボックスが流行りのくだらないヒップホップを流していた。
 無口で無愛想で体格のいいバーテンのいるカウンターまで歩き、僕はハイネケンを注文した。彼は二十五秒後に瓶とグラスを持ってきて、栓抜きで瓶の蓋を開けてくれた。

 観葉植物が傍に置かれたボックス席で、ジェームスは革張りのソファの背もたれに体を預けて、スコッチを口に運んでいた。
 彼の真向かいに座り、グラスにビールを注ぎながら、「調子はどうだ、兄弟?」と声をかけた。
 彼は口の中のスコッチを喉の奥に流し終えた後、「よお、ヘンリー。悪くないよ」と答えた。それから、「俺の方は」と付け足した。
「俺の方は? どういう意味だよ?」僕はハイネケンを一口呑んでから訊いた。
 ジェームスは50ペンス硬貨を指先で弄びながら、「ビクターがやられたんだ」と言った。

「誰に」僕は半ば身を乗り出すようにして訊いた。
「〈ラッキー・ボーイズ〉の連中さ」ジェームスは顔を上げた。「不意打ちだった。ビクターが通りを一人で歩いてるところを、後ろから鉄パイプでメッタ打ちだぜ? 集団で寄ってたかって。マジで卑怯なやつらだ。おかげで全治三週間の病院送りだとよ」
「なんてこった」僕はつぶやいた。「あいつら、クソイカれてやがるな」
「だから、今日は作戦会議を開くためにお前らを呼んだんだ。もう少しすれば、トーマスとパーシーも来る」
 僕は片方の眉を吊り上げた。「作戦って、まさか反撃に出るつもりか?」

 ジェームスは怪訝そうに僕を見た。「それ以外に何があるんだよ?」
「やめとけよ。〈ラッキー・ボーイズ〉はギャングとか、ヤクの売人とかと繋がってる危険な連中だ。それを、俺たちみたいな半端な不良が本格的に喧嘩売って、どうなると思う? 百パーセント返り討ちにされるだけだ。生きて帰れるかもわからない。そうさ、ビクターよりもひどい状況に陥るかも」
 店内のジュークボックスがくだらないヒップホップを流し終え、滑稽なラップを流し始めた時、ジェームスは言った。「俺は一般論が聞きたいんじゃない。理に適ったアドバイスが聞きたいわけでもない。俺はただ、友情の言葉が聞きたかった。ヘンリー、お前には失望したよ」

 家に帰り着いた時には、時刻は午前零時半を過ぎていた。
 僕の家は労働者階級を象徴する典型的な公営住宅で、ロンドンの南で最も犯罪率が高い地区、クロイドンに建っている。

 部屋は真っ暗で、誰もいなかった。お袋はきっと最近付き合ったばかりの若い男とお楽しみ中で、姉貴はおそらく売春中だ。
 つまり、どちらも同じ激しいスポーツをやって、適度にカロリーを消費しているのだろう。毎週金曜日は大体いつもそうなのだ。

 僕は手探りで居間の電気を点け、ふらついた足取りでキッチンまで歩いた。
 流しの前に立つと、胃の中の消化物を逆流させて、外の世界へと吐き戻した。ビールとチョコレートバーとフィッシュ&チップスの混濁した残骸。

 トイレで用を足し、バスルームで体を流すと、爽快ですっきりした気分になった。
 今なら全裸になって、『ロンドン橋落ちた』を歌いながら、ロンドン橋の上からテムズ川に躊躇なく飛び込める自信があるほど、思考はクリアだ。

 バルコニーに出て、九月の夜風を浴びながら、もやがかかったような街の夜景を眺めていると、ポケットの中のスマートフォンが着信を告げた。
 三週間前に別れたばかりのガールフレンド、エミリーからだった。

 着信はいつまでも続いた。しばらく迷ったが、十回目のコールで出ることにした。「なんだよ、こんな時間に?」
『ねえ、ヘンリー。あたし不安なのよ』寂寥感を漂わせる、必要な生命力を損なったようなエミリーの声が聞こえてきた。『不安で不安でしょうがないの』
「何が不安なんだ?」
『将来のことよ』エミリーは間髪入れずに答えた。『あたしは21歳の、いつ潰れてもおかしくないダイナーのウェイトレス。賃金なんか牛糞みたいに安いし、チップがなけりゃ到底生活できない。あたしがどれだけ無理して、常連の中年オヤジたちに媚び売ってるか知ってる? まるで娼婦になった気分よ。ねえ、ヘンリー? あんたはいいわよね。高校生だもの。不良のティーンエイジャーには、心配事なんか何もないんでしょうね?』

「ああ、エミリー。何が言いたいんだよ?」僕は幾分苛立ちを滲ませて言った。
『だから、将来のことよ。あたしファッションモデルになろうと思うの。まずは広告のモデルから始めて、ゆくゆくはヴィトンとかグッチとかプラダとかと契約して、黄色い歓声を浴びながらランウェイを歩くのよ」
「そいつは偉大で崇高でエキセントリックな夢だな。君がそれを実現させることを願ってるよ」
『ありがとう。ヘンリーは? あなたには夢ってあるのかしら?』
「夜中の一時に、神経症の元カノから電話がかかってこないことかな。ちなみに、牛糞は安くないぜ。価値がある。肥料に使われてるからな」
『あんたって最低。くたばっちまえばいいのよ』

 そこで電話が切れた。エミリーの怒鳴り声が聞こえなくなると、辺りは静かな夜の世界に戻った。

【後編】につづく

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