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短編小説「僕は知らないし、気にしない」【後編】

 火曜日、ジェームスとトーマスとパーシーの見舞い帰り、僕はジョージ・ストリートを西に歩いていた。
 日が傾き、だんだんと肌寒くなってきている。西日が射し込む通りを南に折れ、サレー・ストリートに入った。

 三人は、週末に〈ラッキーボーイズ〉にボコボコにされていた。
 なかでもジェームスの状態が一番ひどかった。顔はアザだらけで、左腕を骨折し、右腕は打撲、右の太腿はナイフで刺されていた。全身を容赦なく痛めつけられていた。

 アルコール消毒剤の匂いが充満する病室のベッドの上で、満身創痍のジェームスはこう言った。「お前の言う通りだった、ヘンリー。〈ラッキー・ボーイズ〉なんかに手を出すべきじゃなかった。あいつらはヤバい。完全にラリってやがる。やつらと敵対することは、犬の小便を飲んだり、蜂の巣にイチモツを突っ込ませたりするのと同じくらい無益なことだったんだ」
 表現は汚いが、僕はジェームスのその論理的帰結に全面的に同意した。

 食欲のそそる、ハンバーガーやカリブ料理の匂いを嗅ぎながら、午後六時半の通りを南下していると、十二歳くらいの少年が二人の大男に絡まれているのが視界に入った。
 人通りの少ない細い脇道の向こう、ここから十ヤードほどの距離だ。

 加害者と被害者のどちらの立場も経験があるから、状況はすぐにわかった。カツアゲだ。
 アパートメントの壁際に追いやられたブロンドの少年が、十八だか十九くらいの二人のでかいゴロツキに脅されて、金銭を巻き上げられようとしているのだ。

 自分の知ったことではないし、どうだっていいと、僕はその場を通り過ぎようとした。
 だが、それはできなかった。あの二人の大男が、〈ラッキー・ボーイズ〉の中心メンバー、ドナルドとダグラスだと気づいたからだ。

 ドナルドとダグラス。悪名高い凶暴な二人組。二人とも残忍な性格で、笑いながら人を痛めつけるのが趣味の、この界隈なら誰もが恐れるサディストコンビだ。
 ドナルドがいる時には必ず傍にダグラスがいて、ダグラスがいる時には必ず傍にドナルドがいる。
 いつも一緒にいるため、二人はデキているじゃないかという噂があるが、真相のほどはわからない。とにかく〈ラッキー・ボーイズ〉と言えば、最初に思い浮かぶのがこの二人なのだ。

 僕の仲間を大学病院に入院させた仇が、そこにいる。
 僕は男だ。仲間を半殺しの目に遭わせた当人を見過ごすほど心は腐ってはいないし、理性だけで生きていけるほど器用な性格ではなかった。
 気づくと僕の足は、クソったれカップルの方向へと踏み出していた。

 三ヤードほどの距離まで近づくと、二人は僕の存在に気づいた。振り向いて、警戒するような鋭い目つきでこちらを観察している。
 ガタイが良く、引き締まった体つきなのがダグラスで、肩幅が異常なほど広く、でぶっちょなのがドナルドだ。どちらも、馬鹿みたいにでかいことに変わりはない。

 僕は二人から二・五ヤードの間を開けて立ち止まり、デニムのポケットに両手を突っ込みながら話しかけた。「よう、楽しそうだな。何の話してるの? わかった、『きかんしゃトーマス』の話だ。あの番組最高だよな。子供の頃、熱狂的な視聴者だった。そうだ、知ってるか? 『きかんしゃトーマス』の初代ナレーションって、ビートルズのリンゴ・スターがやってたんだぜ? これって、結構すごいことだよな」

 ドナルドはダグラスの方を向き、嘲るような笑みを浮かべた。「なんだ、こいつ? なあ、このふざけたトンチキのこと知ってるか?」
 ダグラスはわざとらしく肩をすくめた。「知らねえよ、こんなやつ。ちょっとばかりオツムの方が足りない、可哀想なやつなんだろうな。こういうやつが傍にいると、自分の脳みそまで腐っていっちまう気がするぜ」
「おい、トンチキ」ドナルドは低い声で凄むように言った。「殺されたくなかったらさっさと失せろ。俺らはお前みてえな暇人と違って忙しいんだよ」そう言って蚊を振り払うように、右手をひらひらと軽く振った。

 僕は皮肉っぽく微笑んだ。「へえ、小さなガキから金を奪い取ることがそんなに忙しいか。さすが〈ラッキー・ボーイズ〉様は、我々のような凡人とは考えることが違うねえ」
 ドナルドとダグラスは、真顔で真っ直ぐに僕を見据えた。
 少年は、懇願するような目で僕を見つめている。そこから、彼の無言の訴えが感じ取れた。助けて、と。

「お前、俺らのことを知ってたのか?」ダグラスが眉を吊り上げて訊いた。「知ってて、そんな舐めた口ぶりで話しかけてきたんだな?」
「おい。どうするよ、こいつ?」ドナルドは狂気を孕んだように、大きく目を見開いた。
「腕一本だ」ダグラスは人差し指を立てた。「命乞いしろ。そうすりゃ、腕一本で見逃してやる」
「ああ、そうだ。それがいい」ドナルドはニチャッと黄色い歯を見せた。「おまけに、土下座と涙もあった方が効果的だろうな」
「土下座して泣きながら命乞いすれば、腕一本で許してくれるのか?」僕は訊いた。
「そうだ」ドナルドは笑みを絶えさずに言った。「ポキっとな。ポキっと許してやるぜ」

 僕は口元に挑戦的な笑みを浮かべた。「てめえでファックしやがれ。ああ、そっか。お前らは互いのナニをしゃぶり合う関係だから、そんなことをする必要はないのかな?」
 毛布に包まりたくなるほどの凍えるような沈黙が、幅二、三ヤードの脇道を流れていった。
「お前、今なんて言いやがった?」ドナルドが今にも掴みかかってきそうな、血走らせた目で訊いた。「自分が何を言っちまったのか、理解してるのか?」
「もちろん。お前らがこの街のベストカップルだって称えてやったのさ。結婚式の日には、ぜひこの俺を招待してくれよ」

 ダグラスは羊の群れを一瞬で散らばせるほどの猟奇的な微小を携えて、「お前、終わったな」と言った。
「トンチキ。お前はこの世で一番やっちゃいけねえことをやっちまった。俺たちを侮辱したことだ」ドナルドは断定的な口調で言った。「お前はもう死刑確定だ。俺がこの手で地獄に送ってやる」
 ドナルドはそう言うと、袖を捲りながら、大股で僕の方へと歩み寄ってきた。

 僕は一歩後退り、応戦の体勢をとった。
 鼓動が速い。落ち着け、臆するな、ヘンリー・カーター。
 お前はタフガイだ。身長は五フィート九・七インチあって、体重は百四十三・三ポンドある。
 お前は誰にも屈しない。自分より強い人間の前でも、絶対に自分を曲げない。
 そうだ。お前は、こいつらをノックアウトできる。

 昔から、腕っぷしには自信があった。
 だから、こちらに向かって突進しながら繰り出してきたドナルドのパンチを左に避け、やつの溝落ちに渾身の右ストレートを叩き込むことができた。
 手応えは完璧だった。ドナルドはその場にうずくまり、喘ぐような声を絞り出した。まともに呼吸ができないのだろう。

 視界の端で、ダグラスが右腕を振り上げているのが見えていた。
 僕はダグラスの鋭い右フックをダッキングでかわし、やつの顎を目指して真下から素早く拳を突き上げた。
 だが、ダグラスが寸前のところで上半身を反らせたことで、僕の右腕は空を切った。
 急いで体勢を立て直そうとした時には、もう遅かった。頬に重いパンチが飛んできて、僕は地面に吹っ飛ばされた。強烈なカウンターだった。
 視界が反転し、眩暈がするような痛みに襲われた。

 それで試合の勝敗は決まったようなものだった。
 ゆったりとした足取りで近づいてくるダグラスと、ノックダウンから復活したドナルドから、僕は距離を取ることができなかった。
 煙草の吸い殻が散らばり、鳩が餌を求めながら歩く地面から、僕はどうやっても立ち上がれなかった。

 そのあとは、一方的にいたぶられるだけの時間が続いた。
 ドナルドとダグラスは愉悦に浸るように大笑いしながら、僕の腕を、腹を、腰を、肩を、背中を、脚を容赦なく痛めつけた。
 やつらは一瞬たりとも抵抗する隙を与えず、心の底から僕への拷問を楽しんでいた。
 そんな地獄のような状況を、少なくとも五分間は耐えなければならなかった。
 ドナルドとダグラスの不愉快な笑い声が、いつまでも鼓膜の奥で響き渡っている気がした。

 二人が煙草を吸いながら、その場を後して数分が経った頃、僕はやっと規則的な呼吸を取り戻すことができた。
 体中を破滅的な痛みが駆け巡るなか、仰向けになって夕暮れの空を見つめていた。
 東の方角から見下ろす満月がどこか偉そうに感じて、無性に腹が立った。

「大丈夫?」隣から、子供の声が聞こえた。
 首を軽く振り向かせると、地面に三角座りをして、レンガの外壁に背中をくっつけたブロンドの少年が、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「お前、まだいたのか」僕は眉をひそめて言った。「なんで逃げなかったんだよ」
「だって、助けてくれたから」
「勘違いするな。別にお前を助けようとしたわけじゃない」僕は空を仰ぎながら、ぶっきらぼうに言った。「くそっ、派手にやられちまったな」

 数秒間、無言の時間が流れた後、「でも、ありがとう」と少年は言った。「結果的に、お金を盗られずに済んだ」
「そうか、そいつは何よりだよ」
「これ、お礼」少年は紙幣ほどのサイズの、ペラペラの薄い紙を僕に手渡した。
「なんだ、これ?」
「割引券。〈ゴードンズ・ストア〉の」

 確かに紙には、オレンジを基調とした〈ゴードンズ・ストア〉のロゴと、『50%OFF』の表記が印刷されていた。
 〈ゴードンズ・ストア〉と言えば、僕が常習的に万引きを働いているスーパーマーケットだ。普段からセキュリティのチェックが甘くて、この前もバドワイザーとツイックスをくすめ取った。
「なんでお前が、スーパーの割引券なんか」
「僕、この会社のオーナーの息子なんだ」

 僕は少年の顔を凝視した。それから痛みに口元を歪めながら、ゆっくりと体を起こし、立ち上がった。「そうか。だからあいつらは、ブルジョワのお前を標的にしたんだ。あの二人にとって、お前は絶好のカモだった」
「みたいだね」少年は決まりの悪そうな笑みを浮かべた。「だからといって、僕自身は大して持ってないんだけどね。チューリング三人分くらい」

 僕はポケットに片手を突っ込み、少年に背中を向けた。「まあ、こいつはありがたく貰っとくよ。じゃあな」
「あっ、うん。ありがとう」
 僕は軽く片手を挙げると、左肩を押さえ、足を引き摺りながらハイ・ストリートの方向へ歩いた。

 ハイ・ストリートを抜け、サウス・エンドに入った時、僕は心の中で誓った。もう、スーパーマーケットで万引きはやらないと。
 少なくとも、〈ゴードンズ・ストア〉に関しては、絶対。

〈了〉


 最後まで読んでくださりありがとうございました!
 行ったことのないロンドンの地を舞台に話を書いたわけですが、『ニューロマンサー』のウィリアム・ギブスンも、千葉には行ったことがない上でチバ・シティを舞台に書いたと聞き、それならまあいいかと納得しながら書き上げました。
 ちなみに登場人物のファーストネームは、全て『きかんしゃトーマス』のキャラクターから拝借しています。

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