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九キロは長すぎる(12)

 およそ一時間後、僕たちは水本の遺体が見つかった現場、小動岬こゆるぎみさきを訪れていた。

 腰越駅からほど近い、百三十四号線沿いにある小動神社の敷地内を通り、その先の小さな展望台に立花と隣り合わせに立つ。
 柵の向こう、断崖の下には相模湾が広がっているが、今は闇に埋もれている。
 崖に打ち寄せる波のとどろきはどこか威圧的で、岬の先端から浴びる風は恐ろしく冷たかった。

 ダッフルコートのポケットに両手を突っ込み、向こうの江ノ島の夜景を眺めながら、僕は問いかけた。「水本は、芹沢に殺されたんだと思うか?」
 風が強いせいで、声は自然と大きくなる。
「わからない」
 立花は白い息を吐きながら答えた。「だけど他殺だった場合、この断崖から犯人に落とされたことは間違いない」
「ああ、同感だ」

「でも、そもそも深夜の大雨の中、わざわざこんな場所に二人で来るだろうか? 普通に考えれば、まずあり得ないよ。もし芹沢先生に提案されても、水本さんは絶対に断ったはずだ」
「つまり、立花が言いたいのは……」
「ああ。水本さんはすでに別の場所で殺されていて、自殺に見せかけるために、遺体をここから落としたんじゃないかってね。計画的犯行ってやつだ。
 そしてそれが事実だとするなら、水本さんは絞殺、あるいは扼殺されて、ここに運び込まれたんじゃないか?」

「いや、それは違う」
 僕は否定する。「妹の水本玲奈は、『警察は、姉の遺体に外見的に不審な点を見つけなかった』と言っていた。絞殺か扼殺なら、遺体には索状痕や扼痕、吉川線なんかが残ってるはずだろ。
 もちろん、殴殺や撲殺の場合も、同様に遺体に何らかの痕跡が残るはずだし、崖下に衝突したことによる外傷と、警察は混同したりはしないはずだ。多分」
「ああ、草野くんの言う通りだ。駄目だな、僕は」
 そう言って、立花は天然パーマの頭を掻きむしる。「それなら毒殺や薬殺だろうか。劇薬や劇物を使っての……」と言いかけると、すぐに首を横に振る。「いや、これも違う。毒殺や薬殺だった場合、死斑の色で識別できるだろうし、顔には鬱血が見られるだろう。ああ、参ったな。情報が不足してるから、判断がつきかねる」

「立花」
 僕はなだめるように言った。「水本と芹沢が特別な関係にあったことは、ちゃんと突き止めたんだ。だから、まずは二人の間にどんなトラブルがあったのか、その観点から調べてみよう。まだ本当に他殺かどうかもわからないんだし、元々、僕たちなんかに犯行の手口が割り出せるとは思えない」
「そうだね。結局、正攻法はそれしかないってことだ。確かに、水本さんと芹沢先生の関係が判明したことは、これは大きな一歩だと思う。躍進だよ」
 僕はマフラーを巻いた首を縦に振り、「水本が、彼氏の存在を隠していた理由は、蓋を開けてみればこんな単純なことだった」と感慨深げに言った。「教師と教え子の関係を、周りに打ち明けられるはずがないんだ」

 昨夜、僕と立花は、水本が彼氏の存在を秘匿していた理由について、「彼氏が一回り以上、年上の男で、淫行で罪に問われる恐れがあるからではないか」と結論を下したが、これは部分的に当たっていて、部分的に間違っていたことになる。

 つまり、教師と教え子という禁断の関係が露見してしまえば、水本自身の身も危うく、退学や停学の処分に課される可能性があったのだ。
 これでは、確かに親友や妹にさえも明かすことはできなかったはずだ。

「さっき電車の中で、玲奈ちゃんにメールで伝えておいたよ。『どうやらお姉さんは、高校の先生であり、部活の顧問の芹沢っていう男と付き合っていたらしい』って。それから、一月の半ばに、横浜のフランス料理店に一緒に行ったことも。真実を明らかにするって約束したんだ、中間報告は大事だろ?」
「ああ、異論はないよ。妹には伝えておくべき事実だと思う」
 これまで、僕と立花は自分たちの方からは無闇に情報を与えないようにしてきたが、今や水本玲奈にまでその方針を貫いてしまうと、それは彼女に対する背信行為となってしまう。

「一応、今日の昼、脅迫電話の件と九キロ発言もメールで伝えといたけど、やっぱりどっちも心当たりないって」
「だろうな」
 その時、立花の携帯から通知音が鳴った。
 立花は携帯を手に取ると、「お、ちょうどその玲奈ちゃんからだ。長文のメールが来てる」と言って、画面に目を通し始める。

 手持ち無沙汰からふと見上げると、澄んだ冬の夜空に星たちが美しい輝きを放っていることに気がつく。
 中でも目立つのがオリオン座と、一等星で最も明るいシリウスだ。シリウスを手がかりに、すぐに冬の大三角形を見つける。

 しばらく上空の神秘的な光景に見惚れていると、「草野くん」と隣から声がした。
 僕は振り向いた。「メール、何だって?」
「明日の放課後、水本さんの家に行けることになった」
「本当に?」
「うん。明日の夜、千葉に住む母方の祖父母が水本家に泊まりに来るらしいんだけど、おじいちゃんの腰が悪いから、夕方、お母さんが実家まで車で迎えに行くんだって。それで、往復で三時間半。
 お父さんは仕事でいつも帰りが遅いから、その三時間半は、家には玲奈ちゃんしかいないらしい。それで、もしもお姉さんの部屋を僕たちが捜索すれば、何か手がかりを見つけられるかもしれないから、来ないか? だって」
「願ってもない提案じゃないか。是非、伺わせてもらおう」

 水本の部屋を捜索することは、調査においてかなり有意義なことだろう。
 それに、芹沢との関係を知っている上で検分すれば、水本玲奈の言う通り、何か重要な手かがりが得られるかもしれない。
「よし。明日部活が終わったら、真っ直ぐ向かおう。なんだか、少しだけ気分が前向きになってきたよ」
「ああ。予定が決まるっていうのは悪くない」
「にしても、ちょっと寒いね」
「見解の相違だな。かなり寒いぞ」

 僕と立花は小動岬を後にし、神社の鳥居を潜り、百三十四号線沿いの歩道を腰越駅の方向に歩いた。
 電車の接近を知らせる警報音が街中に響く中、立花は言った。
「草野くん、知ってるか?」
「何が?」
「さっきの岬、太宰治が一番最初に心中を図った場所らしい」
 僕は力なく首を横に振り、「知りたくなかったぞ、そんな情報」と言った。


 夕食を済ませた後、自室の机に向かって、僕は原稿の続きに取り掛かっていた。

 調査も大事だが、新聞部部員として原稿を落とすわけにはいかない。
 後輩たちの目の前で、同級生から叱責されるというような醜態を晒すわけにはいかないのだ。絶対に。

 だが、思うようにペンが走らない。明日までに仕上げるという約束をして、事態はかなり切迫しているのにも関わらず、なかなか文章がまとまらない。
 小さく息を吐き出すと、眼鏡を外して、軽く眉間を揉んだ。そして、また掛け直す。

 水本が付き合っていた相手の男を想像した時、芹沢の存在が一瞬でも頭によぎらなかったかと言えば、嘘になる。でも、いざそれが事実だと確定してしまうと……。

 立花は、水本と芹沢の関係を突き止めたことを、躍進だと言っていた。
 僕もその通りだと思う。
 だけど、水本のことを知れば知るほど、だんだんと気分は後ろ向きになっていき、やがて取り返しのつかない厭世観えんせいかんに支配されていく……そして時に真実というのは、心に暗い影を落としてしまう。
 なんだか、そんな気がしてならなかった。

 突如、部屋の扉が開けられ、姉の草野幹葉みきはがはつらつとした声で、「風ちゃん、お風呂空いたよ」と声をかけてくる。
 僕はぶっきらぼうに返した。「ああ」
「何? なんか悩み事? あたしで良ければ聞こうか?」
「いいから、入ってこないでくれ」
「はいはい、わかりましたよ」と言って、姉は扉を閉めて出ていった。

 シャンプーの香りがほのかに漂う部屋の中で、僕は口元を曲げ、数回かぶりを振った。
 高校生男子の部屋の扉をノックもせずに開けるなんて、さすがにルール違反だろう。
 姉がそういうデリカシーを持ち合わせていないのは、弟しては非常に嘆かわしい事実だった。

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