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九キロは長すぎる(11)

 翌日の木曜日、帰りのホームルームが終わると、僕と立花は教室を真っ先に後にし、藤沢駅に向かった。

 東海道線に二十分ほど乗車していると、横浜駅に到着する。
 藤沢と比較して、駅構内の人通りが圧倒的に多い。さすが横浜といったところか。
 みなとみらい線に乗り換え、三駅目の馬車道駅で降り、地下から地上に出る頃には五時を過ぎていた。
 すでに日は落ちていて、空は薄明に近い。

 高層ビルが建ち並ぶ幹線道路を横断し、当時の面影を感じさせる西洋風の歴史的建造物を横目に見ながら、ガス灯の明かりが照らすレンガ敷きの歩道を南進する。
 アントワーヌは馬車道の一角、ビルの一階部分にあった。
 営業時間はランチとディナーで分かれており、ディナーは五時から営業を開始するため、時間的にまだ客はそんなにいないはずだ。

 ガラス張りのモダンビルの前に立つ立花が、「草野くん、これまで高級レストランに入店した経験は?」と訊いてくる。
「記憶の限りでは、一回もないな」
「僕は去年、家族と行ったよ。姉の大学入学の祝いで」
 僕は首を縦に振り、厳粛な面持ちで、「頼んだ」と言った。

 これで必然的に、扉を開ける役目は立花に回ることになる。
 四つ上の姉が横浜のお嬢様大学に進学した時、うちではわざわざ外食に行くようなことはなかった。
 間違っても、高級レストランに足を運んだなどといった事実がないことに素直に喜びを噛み締める。

 立花が恐る恐るといった様子で真鍮製の取っ手を掴み、重厚な扉を開けた。
 立花を先頭にして店内に足を踏み入れた瞬間、ここが男子高校生二人が放課後に訪れるのに、全く持って相応しい場所ではないことを思い知らされる。

 広々とした店内は開放的で、申し分ないほどに高級感があった。
 内装はシックで、全体的に上品で優雅な雰囲気が漂う。煌びやかなシャンデリアに圧倒され、大理石の床をスニーカーで踏むことに尻込みしてしまう。
 こんなの、どう考えても場違いじゃないか。見ると、立花も苦い顔をしている。

 すぐに小綺麗なウェイトレスがやってきて、「いらっしゃいませ」と柔和な笑みで接客する。「ご予約はされていますか?」
「あ、いや、ご予約どころか、すみません、僕たち客じゃないんです」と立花が説明する。「実は、以前、ここのお店に来店した人のことについてお尋ねしたくて。この人なんですけど」
 そう言って、立花は携帯の画面をウェイトレスに見せた。
 画面には昨夜、水本玲奈から入手した、水本小百合のアップの写真が映っている。

「ここのお店に、この女性が三週間ほど前に来たはずなんです。土曜か日曜の、そのどちらかの夜間だと思うんですけど」
 すると、ウェイトレスは困った表情を浮かべ、「申し訳ございません。他のお客様の個人情報については、ちょっと……」と言い淀むと、
「いとこなんです」と立花が嘘をついた。「先週の土曜日に、亡くなってしまったんですけど……いとこがここのお店に来ていたことが、昨日、偶然にもわかったんです。それで、どうしても生前、彼女がここで食べた料理を味わいたくて。
 今は金銭的に難しいですけど、なんとかお金を工面して、いつか、ここのお店で僕も注文したいと思ってるんです。いとこが頼んだのと、同じ料理を。そうすることで、心にぽっかりと空いた穴が、少しでも埋まるんじゃないかって。なんだか、そんな気がするんです。お願いします、どうか、ご協力いただけないでしょうか?」

 そう言うと、ウェイトレスは神妙な顔つきで頷いた。「ご事情承知しました。ただ私自身、申し訳ございませんが、この女性の方に覚えがないものでして。土曜と日曜の、両方の曜日に出勤している者がおりますので、その者なら心当たりがあるかもしれません。少々、お待ちいただけますでしょうか?」
「はい。全然大丈夫です。ありがとうございます」
 ウェイトレスが去っていくと、僕はそっと耳打ちした。「なかなか巧みなレトリックじゃないか」
 立花は口元に薄い笑みを浮かべ、自信たっぷりに言った。「修辞法もそうだが、より効果的なのは嘘の中に真実を紛れ込ませることさ。そうするとリアリティが増して、迫真の演技になる」
 まあ、立花がここのフランス料理店で食事をしたいというのは、本心から発せられた嘘偽りのない真実だろう。

 店の出入り口付近でしばらく待っていると、やがて線の細い面長のウェイターがやってきた。
「お待たせしました。以前、当店にご来店されたお客様がご注文になった品を、お知りになりたいとのことでしたね」と訊いてくる。
「はい、その通りです」
 立花は答え、先ほどと同じ写真をウェイターに見せた。「この人なんですけど、覚えていますか?」

 画面に顔を近づけ、何秒か仔細に眺めた後、ウェイターは言った。「はい、覚えていますよ」
「本当ですか?」
「ええ、まだ開店して間もない頃にご来店なさったお客様ですし、赤いトレンチコートが印象的だったものですから。確か、ご来店されたのは土曜日だったと思います。私が給仕をしましたので、何をご注文されたかも、記憶しております」
 立花と目を合わせる。これは、相手の男を覚えていることに期待できそうだ。

 すぐにでもそれがどんな人物だったかの質問をしたかったが、その欲求とは浦原に、ウェイターは水本が注文したディナーのコースを丁寧に説明していった。
 まあ、建前ではあるが、自分たちが頼んだことなのだ。仕方ない。

 そして僕はこのレストランのコース料理の情報を、右から左に聞き流していった。
 キャビアもフォアグラもロッシーニも、決して僕の空腹感を刺激したりはしない。
 一方で、立花は真面目な顔つきで耳を傾けてはいるが、内心では僕と同じ気持ちだろう。
 客ですらない僕たちの、本音では望んでいない要望に真摯に応えるウェイターに対して、軽い罪悪感を覚える。

 ウェイターの説明が終わると、「どうも、ありがとうございました」と言って立花は頭を下げる。それから、さっそく本題に入った。「ところで、もう一人、一緒に食事をしていた男性の方がいたと思うのですが、どのような方だったか、覚えておられますか?」
「年上の方でしたね。少なくとも、女性の方よりも一回り以上、年上だったと思います。紳士的な佇まいで、品のある方でした」
 やっぱり。予想は当たった。

 立花が続けて訊く。「具体的には、どんな見た目の人でした?」
 ウェイターは首を少し傾け、「そうですね……」と考え込む。「背が高く、端正な顔立ちでしたね。俳優さんのような」
 二十代後半から三十代前半の、背が高くて、端正な顔立ちか。しかし、それだけの情報ではあまり充分な手がかりとは言えない。
 男の服装とか、二人の様子といった、さらに詳細な情報を聞き出そうとした時、「そういえば」とウェイターがつぶやいた。「女性の方が、お連れの男性に対して『先生』と呼ぶのを耳にしました。きっと、文字通り先生と生徒の関係なのだろうと、想像しましたが」

 先生。
 その思いがけないフレーズに咄嗟に反応し、立花と目配せする。
 水本は、塾にも習い事にも通っていなかった。つまり消去法的に考えて、水本にとって一番近い異性の先生と言えば、思いつくのはたった一人だけだ。

 立花が急ぐように携帯を操作し、藤湘高校のホームページに掲載されている、陸上部の集合写真を表示させた。
 画面を拡大し、一人の人物をクローズアップする。
「一緒にいた男の人って、この人じゃなかったですか?」
 立花が携帯の画面を見せて尋ねると、ウェイターは答えた。「あ、そうです。確かにこの人でした」

 その画面に写っているのは、藤湘高校の教員で陸上部の顧問でもある、紛れもなく芹沢透だった。

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