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短編小説「午前零時のマクドナルド」【前編】

 仕事が完了した後、我々はマクドナルドへ向かった。

 それまで、地下駐車場に停めた車内での張り込みは四時間に及び、横浜市長とその愛人がラブホテルから出てきたのは午前零時を回る頃だった。

 探偵業における浮気調査とは、調査対象者が相手と共にホテルを出入りする二つの瞬間を抑える必要がある。
 ましてや、今回の調査対象者は現職の横浜市長だ。ただの一般人とは勝手が違う。彼は妻帯者で、子供も二人いるのだ。
 我々の仕事の結果が今後の政界に多少なりとも影響を与え、世間を騒がせることは間違いないだろう。

 張り込み中、僕と彼女は車内でスニッカーズやカロリーメイトといった携行食を口にしていた。
 だが、当然それらだけで夕食の代わりになるはずもなく、市長と愛人を乗せたBMWがホテルの敷地を出る頃には、充分過ぎるくらい空腹感に襲われていた。
 そういった経緯から、我々はホテルから最も近辺にあるマクドナルド、山下公園通り沿いの店舗まで足を運ぶことになったのだ。

 深夜の雨の中、僕はシビックを運転した。目的地に到着すると、裏手の駐車場に車を停めた。駐車場には他にハスラーが一台だけ停まっていた。
 我々は車から降り、傘をさしてマクドナルドまで歩いた。

 数分後、窓辺に位置するテーブル席で向かい合い、僕はビッグマックを、彼女はフィレオフィッシュを食べていた。
 外では強い雨が間断なく降りしきり、通りの街路樹を激しく揺らしていた。
 窓ガラスに無数の雨粒が張り付き、ゆっくりと滴り落ちていく。
 七月上旬。梅雨が明けるまでに、少なくとも残り一週間はかかるだろう。

 この時間のこの天候だからか、客は我々の他に二十代前半と思われる若いカップルしかいなかった。
 雨の音に混じって、店内に落ち着いたカントリーミュージックが控えめに流れる中、我々は仕事の感想とそれに関連する今後の展望ついて語り合った。

「横浜市長、続投を望んでるようだけど、来月の市長選は絶望的ね」彼女は言った。「と言うより、ドロップアウトって感じ?」
「そいつはもはや決定的だろうな。十五も歳が離れた相手と関係を持つような既婚の男に、市政を任せたいとは良識のある市民なら誰も思わないだろう」
「失脚は間違いなさそうね」彼女はアイスティーを飲んだ。

 僕もコカ・コーラを口にした。「おまけに市長は与党第一党に所属している。来週開催予定の参院選でも、与党の議席獲得に少なからずとも悪影響が生じるんじゃないのかな」
 彼女は少し微笑みを浮かべた。
「どうした?」
「だって、私たちの行動が引き金になって、それほどのことが起きるんでしょう? こんなことって、今までなかったじゃない? 何だかそれがおかしくなっちゃって」
「それだけのスクープを、我々は手中に収めてしまったということさ」
「マスコミが騒いで、世間が認知して、政治が変化する。そのきっかけは私たち。そういうのって、ある意味神秘的ね」
「そうだな」僕は少し笑った。「ある意味神秘的だ」

 僕と彼女は横浜市内の総合探偵社に勤務していて、同期で二十七歳。
 これまで数多くの浮気調査、素行調査、行方不明人調査、いじめ調査、ストーカー調査といった業務に携わってきたが、政治家の不祥事に関わる仕事は今回が初めての経験だった。

 依頼したのは、現職の衆議院議員の息子。彼も政治家で、横浜の市議会議員を務めている。
 来月に投開票が行われる横浜市長選で、候補者である父親の勝率を少しでも高めるような材料が欲しいとのことだった。

 父親にとって、最大のライバルは横浜市長。
 ある筋から仕入れた情報によると、市長には不倫疑惑があり、三十代後半の女性と親密な関係にあるらしい。
 そこでその証拠を掴み取るために、我が社に依頼が寄せられ、僕と彼女が調査員として派遣されることになった。
 そうして五日間にわたる尾行と張り込みの末、つい今しがた不倫の証拠を入手できたのだ。

 僕はビジネスバッグからキャノンの一眼レフを取り出した。
 そして先ほど撮影したばかりの何枚もの証拠写真を、美術館の絵画を鑑賞するような気分で眺めた。
 これらの写真が新聞や雑誌、テレビやネットニュースといったあらゆるメディアに掲載されることを考えると、心の中では笑わずにはいられなかった。

「それ、わざわざ持ってきたんだ?」
「車上荒らしに絶対に遭わないとも限らないからな。今の僕にとって、これは命の次に大切と言っても過言じゃないね」
「警戒し過ぎじゃないのかな?」彼女は苦笑した。「私なんかビデオカメラ、鞄と一緒に車に置いてきちゃったけど」
「まあ、最悪このカメラさえあれば問題ないさ。そんな事態が起きる可能性は、恐ろしく低いだろうけど」
 僕が一眼レフで写真を、彼女がビデオカメラで映像を担当していたのだ。

 一眼レフをバッグの中に戻し、フライドポテトに手を伸ばそうとした時だった。
 反対側のテーブル席に座っていた若いカップルが立ち上がる様子を、何となく目で追った。
 彼らの手には、拳銃が握られていた。

 短い金髪でアロハシャツを着た男と、明るい茶髪のソバージュでオーバーオールを着た女が、迷うことなく奥のカウンターまで歩き、そこにいた三人の店員に銃を向けた。
 柱と柱の隙間から、そんな異常な光景が広がっていた。

 およそここから十メートルの距離があるため、カップルが正確に何を喋っているのかは聞き取れないが、状況的に金を要求していることは明白だった。
 カウンターの向こうで、アルバイトの大学生らしき若い男と女、店長らしき四十代前半ほどの眼鏡をかけた痩せた男が、怯えた様子で両手を上げていた。

 マクドナルド強盗。僕と彼女は半ば呆然としてそれを見ていた。
 こういう非現実的な状況に直面すると、人間というのは一時的に思考が停止して、体が静止してしまうものなのだ。

 店長らしき眼鏡の男が、急いでレジから金を引き出している様子が見受けられた。
 金髪の男が早口で何事かを命令した。
 その直後、我々の傍らでシャッターが自動で下り、窓が遮断され、出入り口が封鎖された。雨の音が四分の一ほどに縮小された。

「ねえ、ちょっと」彼女は血の気が引いた表情で僕を見た。
「ついてないな」僕は口元に笑みを浮かべて言った。

 カウンターに向けて銃を構えたソバージュの女を残し、金髪の男が我々がいるテーブル席まで近づいてきた。
 彼の右手にはリボルバーが、左手にはマクドナルドの紙袋が握られていた。

「この中に財布と携帯を入れろ」男はぞんざいな口調で言い、テーブルの上にマクドナルドの紙袋を放った。
 我々は金髪の男を見上げた。趣味の悪い派手な柄の青いアロハシャツに、下は黒いジーンズ。
 年齢は二十二から二十四といったところか。いかにも人相の悪い顔立ちだ。両耳にはピアスを着けている。細身で、身長は百七十五センチほど。僕と同程度の体格だ。

「どうした? 早くしろ。それとも死にたいのか?」男は銃口を我々に向けた。
 スミス&ウェッソンのM10。銃口は塞がれていない。おそらくは本物だ。
 一体、どこからそんな物を調達したのか。

 目の前の彼女は黙って、手早く財布とスマートフォンを紙袋の中に入れた。
 僕も彼女に倣って、同じようにした。
 金髪の男は二つの財布と二台のスマートフォンが入った紙袋に手を伸ばそうとして、一度止めた。「待て、時計も外せ。二人ともだ」

 僕はオメガのスピードマスターを外し始めた。
 これは入社一年目の時、三ヶ月分の給料をはたいて買った経緯があるため、それなりの思い入れはある代物だった。

 僕が時計を外している間、金髪の男は僕のビッグマックを手に取り一口かじった。
 それから片手で銃を構えながら、シャツの胸ポケットから青いハイライトを取り出し、それを口に咥えてライダーで点火した。
 男は僕に向けてゆっくりと煙を吐き出した。僕は思わず顔をしかめた。

 彼女がセイコーのルキアを紙袋に入れた後、僕もオメガをそっと中に入れた。
 彼女は感情を押し殺したような表情になっていた。
 金髪の男は我々二人の顔を数秒間見つめ、口から煙草を離した。「お前らが店に入ったのは深夜の時間で、終電も過ぎていた。それもこの雨の中。ということは、車で来たはずだ」
 男は僕に銃口を向けた。「キーを出せ」

 僕は言われた通りに、スーツのポケットからシビックのキーを出し、テーブルの上に置いた。
 どのみち車は駐車場に停めてある。嘘でもついて確認されれば、余計なリスクを生じさせるだけだ。
「ホンダか。車種は何だ?」
「シビック、ハッチバック」僕は答えた。
 男は軽く口笛を吹いた。「こいつは儲けもんだ。オメガにシビック、なんてついてるんだろうな。そしてお前はついてねえ」
 下品で不愉快な笑い方で男は笑った。そして不快な臭いのする煙が我々の周りを浮遊する。

 男は銃身で紙袋を指した。「入れろ」
 僕はずいぶんと重みが増したマクドナルドの紙袋に、シビックのキーを入れた。
 彼女は強張った顔で、僕のその動作を見ていた。
 四分の一に縮小された雨の音と共に、車が走行する音が聞こえた。水溜りの上を通過し、鋭い水しぶきが上がる音。

「そのバッグだが」金髪の男は僕の隣、窓側の椅子に置かれた黒いビジネスバッグを指した。「何が入っている? 開けてみろ」
 僕はマクドナルドの緑のトレーを退かし、テーブルの上にバッグを乗せた。  
 ファスナーを開け、中を開いて見せた。変装用の眼鏡とリバーシブルのキャップ、双眼鏡、そしてキャノンの一眼レフ。

「カメラだけ貰ってやる。テーブルに置け」
「駄目だ、こいつは渡せない」僕は男の目を見て言った。
 一瞬の沈黙が流れた。空気が張り詰めたような感覚があった。

「何だと?」男は僕に五センチほど銃口を近づけた。「もう一度言ってみろ。てめえ、何て言いやがった?」
「耳クソでも詰まってるのか? 渡せないと言ったんだ、スカタン」

 正面の彼女は、明らかに僕のことを睨んでいた。
 見解の相違だ。彼女は事を穏便に済ませたい。一方で、僕は何としてでもカメラを死守したい。
 なぜなら今、このカメラはこの金髪の男の命よりも価値があるからだ。抵抗しないわけにはいかない。

「耳クソが詰まってるだと?」男は鼻で笑った。それから低い声色に切り替わった。「てめえ、状況がわかってるのか? それとも何だ? てめえの両耳を切り落としてやろうか?」
 男は腰の辺りから左手でコンバットナイフを取り出した。
 刃渡り十五センチほど。ステンレスの刃先が店内のオレンジ色の照明を反射している。
「片耳だけにしてくれないか? 有名な画家になれるかもしれないんだ」

 テーブルの下、同僚のパンプスが僕の革靴を踏みつけた。
 彼女を見ると、目には非難と抗議の色が浮かんでいた。

 金髪の男は白い歯を見せた。「お前、なかなか面白いやつだな。お前みたいにユーモアのセンスと度胸を同時に持ったやつは初めてだよ。いいね。面白いよ、お前」
 僕は薄い微笑を浮かべた。
「だがな、やっぱりお前のその態度は気に入らねえ」リボルバーの銃身と僕の間との距離が二十センチほどに縮まった。

「ねえっ、そっちまだ終わんないの?」
 奥のカウンターの方から、ソバージュの女が大声で呼びかけた。アルコールで声帯を潰したような、しゃがれた声だった。
 柱と柱の向こうから、あちらの様子が見渡せる。ソバージュの女と、三人のマクドナルド店員が我々の方を向いている。

「ちょっと待ってろっ。今面白いやつがいるんだっ」
「何? なんか愚図ってるわけ?」
「ああっ、財布とかは渡したのに、一眼レフだけは渡そうとしやがらねえっ」
「何そいつ? ムカつくねっ、撃っちゃえば?」
「お前は短絡的過ぎんだよっ」男は笑い、ナイフを挑発的にゆらゆらと振った。「なあっ、いい事考えたわっ。こいつの両耳を切り落としてさっ、それをこいつのビッグマックに挟んで、無理矢理食わせるってのはどうだ?」
「えっ、それやばいじゃん、超ウケるんだけどっ。いいね、やってやりなよっ。歯向かった罰としてさっ」

 それはなかなか残酷で独創的な発想だった。
 そういったアイデアが咄嗟に思い浮かぶのは、この男の一種の才能なのだろう。
「おい、聞いただろ? てめえはてめえの両耳バーガーを食わされるのと、大人しくそのカメラを渡すのと、自分にとってどっちの方が有益な選択だと思う?」

 男は僕のビッグマックの表面に、煙草の先端を押し付けた。
 煙が出なくなり完全に消火されると、吸殻を僕に向けて放った。それは僕のスーツの襟の辺りに着弾した後、床に落下していった。

 その瞬間、頬に強い衝撃が走った。同時に鈍い痛みがやってきた。男が僕に強烈な左を食らわせたのだ。
 口の中で、鉄の味がした。トレーの上のナプキンを取り、唾を吐くと、その一部が赤く滲んだ。

「次はこんなものじゃ済まねえぞ」男は愉快そうに笑って言った。「次はナイフを使う。ナイフを使ってお前の腹を切り裂いて、腸を引き摺り出す。そして最後に、この銃で終わらせてやる」
 僕は口元の血を手の甲で拭い、薄い微笑を維持しながら、ビジネスバッグからキャノンの一眼レフを取り出し、テーブルの上に置いた。バッグは隣の椅子の上に戻した。
「賢明な判断だ」金髪の男はサディスティックな笑みで言い、ナイフを腰のホルスターに収めた。しかし、銃口はしっかりと僕に向けられたままだ。「なぜそれを渡すことを拒んだ?」
「有名女優のスキャンダルが記録されてある。我々は芸能記者なんだ」
 彼女が僅かに眉を上げ、口を開けて僕を見つめているのが容易に見て取れた。
「本当か?」男は目の色を変えた。
「誰もが知ってる女優だ。毎日のようにコマーシャルに出てる。撮影したのは、大御所の俳優との不倫の現場だ」

「待て、名前はまだ言うな。貸してみろ」
 僕は微笑を絶やさず、カメラを男に差し出した。
 そして男が左腕を伸ばした瞬間、僕は右腕で思い切りそれを引いた。男の体を強引にこちらに手繰り寄せ、彼の顔面を勢いよくテーブルに打ちつけた。
 マクドナルドの紙袋が落下し、我々の貴重品が床に散乱した。

 男は悲鳴を上げ、反動でリボルバーは右手から離れ、テーブルの上を滑った。
 僕は反射的にリボルバーを右手で掴んだ。同時に、うずくまっている男の腰のホルスターからコンバットナイフを抜き取り、地面に落とした。

 背後から左腕を男の首に回し、無理矢理立たせ、右手に持ったリボルバーの銃口を彼の右のこめかみに押し付けた。
 リボルバーのグリップは冷たく、想像以上に重量感があった。
 それから低い声でこう言った。「動くな」


【後編】につづく

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