「ただ行ってみたくて」 ポーランド編⑧
ポーランド旅行記⑧ パブリックビューイング in ワルシャワ
飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。冒険などではない、旅と呼ぶのもおこがましい、理由などない、ただ行ってみたいだけだ。
「あれ、この部屋、掃除されてない!」
ホテルに帰るとすぐに、妻が言った。
確かにそうだ。タオルは濡れたままだし、ベッドのシーツは朝起きたときのままだ。
おいおい、どうなってるんだ。安いホテルに泊まっているのではない、ヒルトンに泊まっているのだ。
せっかく部屋で日本代表を応援しようと思ったのに、それどころではない。
僕は妻を伴って、ロビーへと降りていった。フロントへ行くとすぐに、部屋を掃除するようにと言った。
それでも、フロントの女性は不思議な顔をしているので、あなたたちのミスだぞ、と言うのも忘れない。
「ハリーアップ!」
急いでやってくれ、こっちはサッカーが見たいのだ。日本代表の試合なんだ。見逃したくないんだ。サッカーを大切に思うなら、わかるでしょ、と言った顔つきで言った。
しかし、相手は謝ることもせず、わかりましたと頷くだけ。私のミスではない、と言いたいのだろう。
もちろん、あなたのミスではない。だけどね、ホテル全体のミスでしょ。もう少しへりくだってもいいんじゃないでしょうか、声に出して言いたいところだが、相手は金髪長身の美女である。なんだか気後れして何も言えない。そして相手がこう自信満々だと、次第に自分が間違っているのではないかと思えてくるから不思議だ。
そもそも僕は他人を叱るのが下手だ。家で毎日のように妻に叱られているので、そちらはプロフェッショナルだが、叱るのはアマチュアなのだ。
まぁ仕方がないか、誰にでもミスはあるし、すぐにメイクアップルームすると言ってるし、となってしまう。
「どうするの?」
今度は妻に言われて、僕は慌てる。そうだ、とばかりに僕はフロントの隣になるバーを指差した。
「ここで見よう。前半が終わる頃には、部屋の掃除も終わってるだろうし」
僕らは仕方なく、誰もいないバーに入っていった。
お客どころか、店員もいない。
だが、ホテルのフロントに隣接しているだけあって環境は悪くない。テレビの画面は大きいし、席はすべてがソファだ。
日本の試合が始まったが、僕らのほかには誰もいない。やっぱり日本対セネガルの試合には誰も興味はないらしい。
店員が僕らの顔を遠くから覗き込んだが、僕らがサッカーに集中しているのを見ると、諦めたように注文をとりにこない。
なんとも大らかと言うか、いい加減というのか、これでもヒルトンである。
試合は一進一退である。シュートを決めるごとに僕らは大声をあげた。
すると、店員がまた僕らの顔を覗き込む。だが、注文する気がないとわかると、また顔を引っ込めた。
後半は、部屋のテレビでと考えていたが、ここの方が見やすいので、部屋に戻るのはやめにした。
まるで僕ら専用の店みたいだった。試合はご存知の通り引き分けに終わった。
部屋に戻ると、掃除はすっかり終わり、綺麗になっていた。まぁ当たり前のことだが、なんだかほっとする。
日本代表の試合は終わったが、僕らにとってはこれからが本番である。
ポーランド対コロンビアの試合をパブリックビューイングで見るつもりだったからだ。
「大丈夫かな?」
小心者の僕は、ここに来てやっぱり心配になる。
サッカーの熱狂的なサポーターというのは、勝っては暴れ、負けては暴れる、つまり、どんな試合でも暴れるというわけだ。
特にパブリックビューイングのような場所では、どんなことが起こるとも限らない。ポーランドの日本大使館は、そのような場所には出かけることを控えるように通達していた。
でも、でも、でもである。せっかくW杯の期間中にポーランドにいるのだ。どんな風に応援するのか、見ないわけにはいかない。
僕は、ワルシャワに来てから、ほとんど観光には行っていないが、ここだけは譲れなかった。
そして、それなりの武装もしていく。僕は袋から真新しいポーランド代表のユニフォームを取り出して、身につけた。これで大丈夫だ。最高の鎧だ。
ユニフォームは、昨日お土産屋で買った千八百円の偽物、いやレプリカだ。
どこからどう見てもアジア人だが、どこからどう見てもポーランド代表の応援だ。
今日の相手は日本代表ではない。コロンビアなのだ。ポーランドを応援したって、何の差し障りなどない。
僕の背中には、スター選手であるレバンドフスキーの名前が書かれていた。
その姿を見て、妻がウフフと笑う。仕方がないだろう。ポーランドのサポーターにからまれたら、こんな背の小さい僕が太刀打ちできるわけがないのだ。敵のユニフォームだって着るよ。
僕らは、ホテルからすぐの文化科学宮殿前のパブリックビューイングの会場に急いだ。
会場は柵で囲まれていて、入り口ではセキュリティーチェックをしていた。
入場料はどこで支払うのだろうか、僕らは辺りを見たが、そのような場所はないようだ。
「え、無料なの!」
思わず妻が声を上げる。東京ではパブリックビューイングと言いながら、ほとんどが有料なので、このポーランドの大盤振る舞いに驚いてしまう。
さすが、本場は違う。
ただしセキュリティーチェックは厳重だった。二メートルはあろうかという大男たちが数人、恐ろしい顔で、カバンの中身をチェックするのだ。OKが出ると、手首に紙が巻かれた。何やら番号が書かれているところをみると、人数を確認しているのかもしれない。
中に入ると、すでにほとんどの席は埋まっていて、僕らは後ろで立ち見するしかないようだった。
ほっとしたのは、会場には若者ばかりではなく、家族連れが多いことだ。どうやら想像していたよりも安全のようだ。
だが試合が始まる直前、目の前のいかつい大男に、セキュリティーのこれまた大男が何かを言って、言い争いになっている。
その形相の恐ろしいこと。セキュリティーは男の腕を掴むと会場外に引きずり出す。男はフーリガンで要注意人物だったのだろうか。それならば、後ろにいた僕らは本当にヤバかった。やっぱり危険な場所かもしれない。
ふぅ~やれやれ。
試合開始時間は午後八時。大きなモニターの後ろには、高くそびえ建つ文化科学宮殿がみえる。空は青く澄み渡っている。午後八時とは思えないほどに明るかった。
急に歓声が上がる。モニターを見ると、ポーランド代表が入場してきたようだ。
「ポルスカ!ポルスカ!」
の大合唱である。もちろん僕も同じように叫ぶ。なんだかポーランド人になった気分だ。こんな一体感は悪くない。
もちろん隣では、そんな僕を見て妻が笑う。ポルスカコールの後は、国家斉唱。太く野太い声の男たちが、神妙な顔で歌っている。愛国心からか、それともサッカーへの愛なのか、いずれにしても一体感は強い。
試合が始まると、みんな乗り出すように正面のモニターを注視する。アナウンサーはポーランド語で絶叫する。
ここで一つ問題が発生。目の前に立つ男たちが大きすぎて、モニターが一部しか見えない。仕方がないので、まわりの状況から察するしかない。歓声はポーランドの攻撃。ブーイングはコロンビアの攻撃。アナウンサーはどちらの場合でも常にポーランド語で絶叫。
会場の一体感は凄い。応援は白熱する。だが、流石にサッカーを知り尽くしているのか、ポーランドの不甲斐ない攻撃に、観客たちは次第に苛立ちを表す。仲間同志では、両手を振り上げて、これじゃダメだ、と嘆いている。
前半にコロンビアが先制すると、三分の一ほどの観客が帰り出す。もう逆転はないと悟ったのだろうか。見切りも早い。淡白だね、ポーランドの方々。
僕らもその波につられて、外に出ることに。
たぶんこのままだと、ポーランドは負けるだろう。このまま帰った方が良いように感じた。負けて暴れられては堪らない。
僕はあんな大男たちから、妻を守るなんて、とても出来ないので、大人しくホテルへ帰ることにした。
会場を後にするとき、紙のリストバンドを強面のセキュリティーが回収していた。
がっかりしているのか、彼らの表情は試合前とは違って暗く沈んでいるように見えた。
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