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落書きへの憧れ。

僕は昔も今も、落書きができる人に大きな憧れがある。その想いは尊敬半分、嫉妬半分でできている。それは、僕が落書きに対して、個性や創造性を感じているというのもあるし、それができない自分に、何か欠損のようなものを感じているからだ。

僕が通った学校では「落書き」が流行っていた。落書きの対象は教科書だったり、友達のノートや机、中でも印象に残っているのは、無印で購入できる透明なペンケースへの落書きだった。

みんなのそれを見ると、オリジナルの4コマ漫画や、先生をデフォルメしたデタラメな絵なんかが描き込まれていて、僕はそれを見てかっこいいと思ったし、自由に表現ができるみんなのことを、いつもうらやましく思った。

自分もみんなと同じことがしたくて、親に頼んで無印のペンケースを買ってもらったことがある。まっさらなビニルを開け、大好きな青いペンを右手に持って、いざ描こうとするが、ケースを前に僕はフリーズして、何も描くことができなかった。

このときの僕は、何を描けばいいのか本当にわからなかったし、描きたいものも出てこなかった。

ただ、何も描かれていないまっさらな状態で学校に行くわけにはいかなかったから、「何かを描かねばならない」という焦りの中、考えた末に、僕はケースにドラえもんを描いた。

自分でやったことだが、これには本当にがっかりした。絵は下手だし、何よりもその落書きは何ひとつとして面白くなかった。自分へのショックと恥ずかしさから、必死になって消した。父親の作業場からシンナーを持ってきて消した。僕はこのとき泣いていたし、泣きながら、僕しか知らない、「落書きの見本」が欲しいと強く願った。

この話をすると、「えっ落書きでしょ、適当でいいじゃん」と、そういう声が聞こえてきそうだけど、自由に描いていいよというのが、僕には思考停止の呪文のようだったし、僕が思考停止している前で、自由にあれやこれやとペンを走らせることができる友達を見ると、置いていかれている気持ちになった。

この、落書きコンプレックスは、僕が持つコンプレックスの中でもかなり上位にある。「落書きができない」を言い換えれば、「やりたいことがない」「創造性がない」ということだと考えているからだ。

もちろん創造性にも発揮の仕方や、それぞれの得意なフォーマットがある。だから、すべての創造性が落書きだとは思わないし、自分を肯定する上でも、自分の創造性の発揮は別のところにあると思うようにしている。

ただ、比較的イージーな落書き「教科書に出てくる過去の偉人たちにひげを書く」ことすらできなかった自分は、何かが欠損しているんだと思ってしまうんだ。

今思うと、個性とか創造性に憧れを持ったのは、この落書きが原体験なんじゃないかと思う。