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教室開設への思い

 私の人生は、成功と挫折を繰り返してきた、紆余曲折の人生である。今幸いにして小さな学習教室を経営できるまでになれたが、それまでには様々辛い思いもしてきた。もし私と同じように辛い思いをしながらも、次世代のために何らかの社会貢献がしたい、あるいは苦境を乗り越えたいと願う者がいるならば、その者のためにもここに半生と教室開設への思いを書き記して遺そうと思う。

1.幼少期…音楽との出会い


 私は幼少期より音楽が好きで、いつも歌を歌っていたようだ。記憶に残るところでは、初めて人前で披露した歌は、森昌子の『せんせい』である。カセットテープも貴重なこの時代に父が録音してくれていたテープがあったが、紛失してしまった。後に悔やんでも悔みきれないこととなる。

 人口3,000人の小さな北国の村の団体職員であった父と、専業主婦の母は、赤貧洗うが如くの生活を送っていた。両親は2人とも戦中生まれの貧しい農家の生まれで、地元の高校は卒業すれども、文化的教養は何ひとつ受けていなかった。特に母は聴覚障害を持ち、高校進学を両親に反対されるような時代。途方にくれた母は家出して、家族に内緒で強引に出願したらしい。父は父で色覚障害を持ち、結婚は出来ないものと諦めていたそうだ。そんな2人の間に私はこの世に生を受けたのだった。

 それはさておき、音程を外さずに歌う私を見て、これは音楽の才があるに違いないと思った民謡好きの父は、私を地元のピアノ教室に連れて行ってくれた。しかし、私の師は、手を持ち上げて見るなり、

 手が小さいから本格的なピアノは無理です。

と仰った。そう、私は手が小さいという理由で入門を断わられたのである。徒歩で家から通える範囲で他に教室がなかったため、仕方なくオルガンで独学することになった。

 が、どうしても諦められずに小学生になってから再度教室を訪れた。そこには教室の先生の1つ下の娘が既にレッスンを始めていて、教室奥のリビングからブルグミュラーのアラベスクが聞こえていた。私は独学していたバイエルの曲を数曲弾いて、初めてピアノを習う許可を貰うことができたのだった。

 赤バイエルを飛ばして、黄色バイエルの最初からレッスンを受けられるようになったが、生まれの違いによってレッスンの時期を遅らせられるという理不尽な差別を最初から味わうこととなった。

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2.小中学校での明と暗


 父はピアノを習い始めた私を喜び、ついにはアップライトピアノを購入してくれた。YAMAHAのUX、当時の給料3ヶ月分以上したであろう。毎日少しずつ練習し、小さな地元のピアノコンクールの予選を勝ち抜ける程度に上達していった。そのころには漠然と音楽の先生になりたいという夢を抱いていた。

 ピアノ演奏という特技を生かし、小・中学校では合唱部でピアノ伴奏を任せて貰えた。合唱コンクール、所謂Nコンにも出場した。隣市の強豪部と合同練習に行った。また憧れて入部した吹奏楽部では選抜の末、学校で初めて購入したオーボエを任された。が、誰も吹いたことはないので、指導してくれる人はいなかった。唯一リードの吹き方を教えてくれたのは2学年上で、後に京都大学に入学したクラリネットのパートリーダーの先輩であった。そんな孤独の中で1人黙々と毎日練習に明け暮れた。 

 その結果、吹奏楽コンテスト、及びアンサンブルコンテストでは県大会入賞を果たした。3学年の文化祭における定期演奏会では、急病で倒れられた顧問の先生に代わり、指揮を振ることになった。その他『青森県中学生による作曲コンクール』にて2年連続銀賞に入賞も果たし、地元新聞に掲載された。高校入学時に、全く知らない同級生に、「新聞に載っていた作曲コンクールに入賞した人だよね?」と声を掛けてくれたのは、高校生にしながらジャズ喫茶に足繁く通うクラリネット吹きの同級生だった。新鮮な驚きだった。

 ここまで書けば、一見順風満帆に見えるだろうが、虐めも経験した。中学1年の最初の中間テストの翌日から、クラスの誰からも話しかけられずに陰口を言われたり、無視される辛い日々を送っていた。当時は廊下に成績順に名前を貼りだされたもので、成績上位者は全校生徒の誰もが知り得た。そう、私は目立つ成績により疎まれたのである。同調意識の高い田舎において、人と違うこと、抜きん出る事は許されなかったのだ。皆同じ髪型、カバン、制服、文具に至るまで。

 乗り越えられたきっかけは、担任の先生の勧めで、いじめ体験を元に青森県中学生防犯弁論大会に出場したことだ。大会前に練習として、全校生徒1000人余りを前に登壇し、渾身の勇気を出して虐めの根絶を訴えた。手足は震え、喉は乾き、眼の前の視界は蜃気楼の如くゆらいだ。一瞬の静寂の後に割れんばかりの拍手が耳に届いた。虐めていた当人達は下を向いていたのが壇上から良く見えた。

 結果5位入賞を果たし、私のいじめは沈静化した。虐めていた生徒らとも卒業すれば会わずに済む。そう、新しい生活、新しい可能性に向けて羽ばたく予定だった。

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3.挫折と別れ


  さまざまなことにチャレンジし、また困難を乗り越えて、将来は音楽教師になりたいという夢を大いに膨らませながら、そのためになるであろうピアノと吹奏楽部の活動を入試直前まで続けながら、地元の進学高校に入学した。但し通学には片道1時間半もの時間がかかってしまうため、高校での部活動は難しく思っていた。

 追い討ちをかけるように、医師から父が癌であるとの告知を受けた。余命幾ばくもない父を憂う気持ちと、自分の先の見えない将来への不安から、学校への通学がいつしか苦痛になっていった。事情を話したにも関わらず、仮病、怠けと断罪する担任の先生との衝突、不審感から成績も急降下、不登校気味になり、高校中退も考えるまでに至ってしまったのだ。当時2年生の頃の記憶がほとんどないほど、学校には行かずに父の入院している病院に足繁く通った。

「今日も学校休みなのか?」

と父が笑って聞いてきては、

「今日は開校記念日だよ」

と見え透いた嘘をついていた。が、きっと父はわかっていたに違いない。しかし後ろめたい気持ちはなかった。私はただ僅かに残された親子の時間を少しでも長く持ちたかったのだ。

 2年で出校日の相当数を休み、単位はギリギリ、成績もほぼ最下位グループにまで落ち、将来を悲観しては何もやる気になれず、ピアノのレッスン費も厳しくなるだろうと、自ら辞めることを決めた。音楽教員への道も絶たれ、ただなんとなく日々を過ごしていた。

 迎えた3年では担任が変わり、国語の古典の先生がボロ雑巾のような私を迎えて下さった。父は大学受験前々日に亡くなり、私は卒業式も受験にも行けなくなった。精神的にも、経済面においても大学進学を諦めかけていた時、先生の後押しで予備校へ推薦していただき、アルバイトをしながら生活の立て直しをすることになった。そして1年の浪人生活の後に奨学金を借りながら大学生活を送れることになったのである。

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4.挫折からの転換


 一浪している間に大学入試制度は、共通一次試験から、センター試験と言う名称の、複雑なシステムに変わっていた。第一志望の学部は制度の隙をついたところで、実に38倍もの倍率に膨れ上がっていて、試験会場は体育館に変更されて行われた。とても寒かったことを今でも覚えている。結果、実力及ばずで第一希望の大学は叶わなかった。もう一校受けた文学部の日本文学科になった。今にして思えば、高校で私を救ってくれたのは古典の先生。国語教員であったのだから、私もそうなるべくしてこの大学に縁があったのだろうと思う。が、当時はそうは素直に思えなかった。少しでも上の世界に行きたい、国語教育を極めんと、大学院進学を目指し、アルバイトと勉強との両立生活を続けながら勉学に励んだ。そしてゼミの先生にも認められ、家族を説得して大学院に進んだのだった。

 大学院では、その土地最大手の進学塾の講師として勤務し、家庭教師派遣会社にも登録し、誰も知る人のいない土地で、生活費の仕送りは無しにがむしゃらに仕事をし、レポートを書いた。が、自信を持って仕上げた修士論文は、他のゼミの先生以外には評価されるも、肝心の所属ゼミの先生に酷評を受けたのだったのだ。

 院に残るだけの評価も資金もない。挫折感に打ちひしがれつつも、一方では教壇に立ちたいという希望もあった。大学院に残ることを前提に動いていたため、公立の教員採用試験を受けるも準備不足で不合格だった。しかし、もう一方の私立高校には運良く採用されることになり、高校の国語教員としてスタートした。

 ここで私は人生最大にして最難関の経験を積むこととなった。常勤講師とはいえ、多岐に渡る仕事内容、それは、音楽科担任の他に、バスケット部、生徒会の顧問や寮監の任務も与えられた。事実上、24時間寝食を共にし、生徒たちの悩みに対峙する日々を送っていた。そして、それらひとつひとつの出来事は、私の教育観を180度変えることとなった。なによりも、一斉授業での限界を感じていた。

 高校に入るまでの基礎教育をしっかり定着させ、一人一人に丁寧に指導したい
 何より困っている人のために勉強を教える手助けをしていきたい

 そう願うようになっていった。自分のやりたい事、やらねばならぬ事は、学校教育の場ではなく、家庭にあるのだと強く思ったのだった。

 私が常に学校、教育の場で成長することができたことは、私にとってかけがえのない経験となり、財産となった。それは次の人生のステージに活かされるのであった。

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5.教室開設への思い


 自分の理想の教育像はなんであるか、原点に戻って考えた時、それは本当に必要とされている生徒一人一人のための、個に応じた教育であるべきだと思いを胸に、私は次のステージを家庭教師という形に求めた。

 およそ20年に渡り、学校の教育現場ではみることのできない様々なケースを見てきたが、中でも最も印象に残っている生徒がいる。

 祖母の元で暮らす彼女は、成績は決して良いわけではない、むしろ低迷している生徒だった。そんな彼女をなんとしても高校に進学させて、少しでも良い生活が送れるようにしてやりたいと、祖母がわずかな国民年金から指導料を捻出して契約して下さっていたのだ。指導回数からいえば、最低でも週2回指導しなければ追いつけないような状況であったが、とても提案できるような経済力ではないことくらいは私にもわかっていた。

 私はこの生徒を担当してからというもの、考えを改めた。そしてかつて、手が小さいからと言われて入門を断られた小さい頃の自分と父の事を思い出していた。そう、あれは手が小さいというのは建前だった。生まれの違いで教育の機会が違うというのは私には許せなかった。 

 理想の教育の場が既存しなければ、自分で作ったらいいじゃないか 

 それから数年の歳月を経て、わずか1名から始まった習字教室を母体に少しずつ独立に向けて準備し、子どもたちの中高ダブル受験を終えて一段落ついたところで教室を開設し、現在に至る。

 私のこれまで習得出来た知識、技能、経験は、在学中、あるいは在職中の全ての先生、関係者、さらには子育てを通じて子どもたちから学んだと言えるだろう。

 今度はそれを次世代の子どもたちに還元したいという思いから、より多様な生徒たちとの出会いを求めて教室を設立することができた。文武両道を目指す子どもたち、そして困難を抱えながらも勉強を頑張っていきたい、このような子どもたちを全力で応援したいという思いを胸に、日々努めていこうと思う。

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