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小説「魔女のシチュー」

 五月にしてはまだ冷えるものの、陽が長くなってきた。自分の影を手押し車で轢きながら、ゆっくりと化生けしょうの口紅は歩いていく。
 化生の口紅は齢百十一の魔女だ。魔女にとって老いが意味するのは「老練」でしかなく、本来関節や視力の支障とは無縁である。それでも、口紅は地面を確かめるようにゆっくりと歩く。
 風が吹き抜ける住宅街は閑散としているが、家々の明かりの中でさざめく息遣いを感じる。ひっひっひ。口紅はそう笑いたくなった。魔女の自分には、家庭の温かさなど理解できないとでも言うように。
 辺りが薄暗くなり、やっと粗末な自宅が見えてきた。手押し車に積んだ食材を頭の中でこねまわしていた口紅は、ふと空き地に子供がいることに気づいた。近所に住む、いつでも半袖半ズボンの男の子。高山湊たかやま みなとだ。
「湊くん、どうしたい。お母さんに締め出されたのかい」
 ランドセルを背負ったままの湊は、弄んでいた雑草を捨てて顔を上げた。
「魔女のおばあちゃん!僕、鍵忘れちゃった」
 湊は口紅を「魔女のおばあちゃん」と呼ぶが、口紅が本当に魔女であることを知らない。もしくは、いずれ信じなくなると言うべきか。少なくともピリリとした顔つきの彼の母親は、息子が近所の老婆を魔女と呼ぶことを許していない。
 鍵っ子である湊は、たまに鍵を持ち忘れて学校に行ってしまい、家に入れなくなる。その時はいつまでも公園で遊んでいたり、友達の家に厄介になっていたりするようだ。
功太こうたくんちは駄目なのかい」
 同じく近所に住む彼の友達の名を挙げると、湊はうつむいてぶっきらぼうに言った。
「功太くんのお母さんが、いつも来られると困るからって。お母さんに言ってって」
「……それは気の毒にねぇ」
 老婆になっても母親の感覚というものは残っている。その感覚からすると、功太の母親の気持ちも理解できる。
「私んちに来て、お母さんに電話したらどうかね」
「うちの電話の横に番号が書いてあって……」
「お母さんは西区の朝日屋で働いているんだろ。電話帳で調べればわかるさ」
 口紅がそう言うと、湊は元気付けられたように立ち上がった。暗がりの中で、八歳の陽に焼けた脚がにゅっと伸びたように見えた。

「ごめんなさいね、まだ帰れそうになくて……。学校に送り返していいから」
 電話の向こうの湊の母親は、甘い作り声の底にヒヤリとしたものを感じさせる。
「学校は歩いて30分はかかるだろ。私でよかったら預かるけどねえ」
 口紅が提案すると、案の定湊の母親はあら助かります、と簡単に挨拶をして電話を切った。
「さて、私は今から夕飯にするよ。湊くんは家で食べるんだろ。つまみ食いだけしていくかい」
 受話器を置いて湊に向き直ると、少年は気まずそうな顔をした。
「給食いっぱい食べたから」
「お腹減ってないってのかい」
 彼はぶんぶんと首を振る。
「うちではいつも食パンしか食べない」
「へええ。でもここは私の家だからね。食パン以外を食べてもらうよ」
 口紅は湊のか弱い遠慮を吹き飛ばすように言った。こういう時老婆でいるのは気楽だ。老婆は勝手なことを言い、好きに振る舞うものだから。
 食の細い一人分の材料を眺めて、口紅の頭に浮かんだ言葉は「水増し」だった。連鎖的に思い出される、芋のつるや何かの根っこが入った雑炊。闇市の残飯シチュー。
「そうだね、シチューは好きかい」
「好き!」
 やっと笑顔を見せた湊につられてにんまりと笑う。
「じゃあ手伝うんだよ」
 これだから子供は嫌だ。魔女の作るシチューを喜んで食べるってんだからね。口紅は頭の中でひねくれる自分に、自分で満足しているような気がした。

 口紅は料理に魔法を使わない。本人にも説明できない何かがそれを拒むのだ。人でありたいのか、人であることを忘れたくないのか。じゃがいもを大きめに切りながら、口紅は台所ごしに視線を感じた。台所の正面にある食卓に陣取った少年は、人参の皮を剥きながらたまにぼうっと口紅を見ている。その様子は、子供がつけっぱなしのテレビに気をとられるのに似ていた。
「珍しいかい、料理してるのが」
 思いついたことを聞くと、湊は少し考えてうん、と答えた。急いでピーラーを滑らせ、身が削れて角だらけになった人参を持ってくる。
「若造にしちゃ上手いじゃないか」
 受け取る側からいちょう切りにしていく。口紅は、自分より百三歳も若い相棒がしでかしたへまを隠しているような気分になった。目を刺激してくる玉ねぎに不平を漏らしながら切り、ぐにゃぐにゃした鶏肉の皮に愚痴を言いながら切る。文句は聞いてくれる者がいないと言えないことを思い出す。皮剥きの仕事が終わった湊は台所に立ち、口紅の手元をじっと見上げていた。
 深めのフライパンを熱してバターを落とすと、ふんわりと甘い香りが立つ。口紅は台所の窓を開け、とろりと溶けるお日様の色を眺める。野菜と肉を炒め、塩胡椒を振る。玉ねぎが透明になってきたところで火を止めた。口紅が思い出したように換気扇をつけ、台の上にある小麦粉を取ろうとしたところで、湊にぶつかる。包丁は持っていなかったものの、口紅の背中がヒヤリと冷える。
「突っ立ってるのが趣味なら、あっち行きな」
 口紅は食卓から椅子を引き抜き、台所の向かい側に置いた。
「ここに立てば見えるだろ」
 湊は小さく謝り、素直に椅子の上に立った。
「手を出すんじゃないよ、火傷したくなかったらね」
 鋭く言いながら、映画の台詞のようだと口紅は思った。悪者顔の、女親分が言いそうな台詞。なんとなく楽しくなって、わざと乱暴に水を汲む。これをぶちこんで、ごたごたに煮込んで、食わせてやる。荒くれた一人芝居を空想しながら、そっと火を弱める自分が可笑しい。ひっひっひ、と笑う。湊が目を丸くする。
「お皿を出しな。深くて白いやつだよ」
 煮えてきた材料に一息つき、牛乳やコンソメで味を整える。軋んだ音を立てる換気扇の音に紛れて、湊が元気よく返事をする。
「ルー、使わないの?」
「魔女のシチューでは、使わない」
「うちでは使うよ。……たまにしか作らないけど」
 子供の声に母親を咎めるような響きがあった。僅かばかり残っている口紅の親心のようなもの、がちくりと痛む。
「そうかい。私は暇だからね。湊くんのお母さんは暇人じゃないのさ」
「うん。いっつも忙しいって言ってる」
 口紅は説教じみたことを言う気にはなれなかった。それでもどうにかして、たまに顔を合わせるだけの、挨拶を無視することさえある、ツンとした湊の母親を庇いたくなるのだった。
「そうだろうねぇ……本当はご飯を作って湊くんを出迎えて、一緒に食べたいのさ」
 口紅はそう言うのがやっとだった。湊の父親の話は聞いたことがない。おそらくいないのだろう。口紅の夫だって、いないようなものだった。終戦後、困窮する生活の中で一日中酒ばかり飲んで、借金を作って暴れる男。働くのも妻まかせ、家事育児も妻まかせ。育児といっても最低限のことしかしてやれなかった。そういえば、口紅の娘にとって口紅は「いないようなもの」だったのかもしれない。たまに遊んであげると、すごく嬉しそうにしていた。
 口紅の物思いは長いようで数分だった。栄養そのもののようないい香りを吸い込み、味見をする。悪くない、と思いながら口紅は火を消した。小皿に取って冷まして、湊にも渡す。
「熱いよ」
「うん。あちっ。……おいしいと思う。あつい」
「当然さ。味見が一番美味しいのさ」
 口紅は湯気を立てるシチューを深皿に盛り、仕上げに香草類をぱらりと散らした。
「それなに?」
「隠し味だよ」
 人参の葉とパセリを乾燥させたものだが、しわくちゃの老婆が使うと怪しげに見えなくもない。
「魔女の隠し味?」
「そうさね」
 湊は心得たような真剣な面持ちで頷いた。秘密は守る、とでも言うように。

「いただきまーす」
「召し上がれ。……いただきます」
 食前の挨拶を聞くのはいつぶりだろうか。湊はスプーンを握りこむようにして食べる。器用なもんだ、と口紅は思う。シチューなのだからパンを合わせてもいいのだが、「食パン以外を食べてもらう」と言った手前、碗に盛ったご飯を出した。湊は口をすぼめてご飯を見つめ、シチューに入れてもいいかと聞く。
「なんだい、いちいちそんなこと。好きにお食べ」
 口紅はわざと面倒臭そうに言い、シチューを口に運ぶ。
「おいしい!給食のよりずっとずっとおいしいよ」
「そうかい」
「お母さんのよりおいしい」
 何気ない少年の言葉には、お世辞や愚痴の雰囲気は少しもなかった。そのことが口紅の心を、またもちくりと痛ませる。
「そんなこと、お母さんには言うんじゃないよ。魔女のシチューは特別なんだからね」
 口紅は笑った。ひっひっひ、と笑おうと吸い込んだ空気が、ただの微笑みに溶けていった。


おわり

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