星を集めたい話

 皆さまには夢がありますか?目標とは別物の、漠然としたやつ。例えば「生身で空を飛びたい」とか、「超能力を使いたい」とか、空想的でほぼ実現不可能なもの。少なくとも、子供のころは誰しも持っていたのではないでしょうか。

 私も小さいころからたくさんの夢を抱えていて、その多くは成長過程で振るいおとされてきました。しかし今でも、疲れたときなんかに湧きあがる夢がいくつかあります。

 まず一つめ。交通を鎮静したい。これはアクセル・ハッケの「ちいさなちいさな王様」(那須田淳/木本栄 共訳)という小説に出てくる表現です。大人向けの絵本として紹介されていることが多い本です。この小説の中に「交通の鎮静につとめる詩人」が出てきます。

 その詩人は空想世界の住人のような存在で、彼を目撃した主人公は「(これまで)一度も彼を見たことがない」と言います。おそらく、彼に戸籍はないでしょうし、税金も納めていないでしょう。ほとんど透明な存在なのです。道ゆく人々も車も、詩人に目を止めずに通りすぎていきます。彼は道路の真ん中で両腕を広げているというのに。

 心が震えませんか?震えるという人がいるといいのですけれど。しかも彼は、迷惑行為をしているつもりはないのです。むしろ人の役に立ちたいと願っているのです。ああ、彼の行為が報われる日が来らんことを!

 ――とまあ、本に埋もれて子供時代を過ごしたためか、うっかりすると翻訳調みたいな文体になってしまうのですが、それはさておき。世の中のごたごた、心の中のがらくた、そういったものに疲れはてているとき、強く思うわけです。「交通を鎮静したい」と。せめて静かな午後がほしい。木々の葉の触れあう音だけを聞いていたい、と。

 いえ、もしかしたら、あの詩人の満足げな顔が見たいだけなのかもしれません。


 ここで記事を終わらせれば格好いい気がするのですが、一つめと言ったからには二つめもあります。書きたいので書きます。ずばり、すべての誤謬を正したい。星々のように世界中に散らばる誤謬、誤字、脱字、衍字、そういったものを端から端まで直したいのです。

 こんなことを書くのは、自分の首を絞める行為にほかなりません。私も美文が書けるほうではないですし、しょっちゅうミスしますので。なんならこの記事でもミスしているかも。あと、誤解のないように記しておきますが、私は他人の行いに対して神経質なタイプではありません。一人で自分に鞭を打っているような人間なのでご安心ください。

 ではなぜ世界中の誤謬を修正したいのか?自分のことしか気にならないなら、放っておけばいいじゃないか。こうお思いのかたもいらっしゃるでしょう。非才な私としてはもう、「よくないですか?」と雑な投げかけをするしかありません。

 想像してみてください。なんの誤りもなくなった地球を。少なくとも、お金を払って買った文章に関しては、目がひっかかることなくすいすいと読める世界を。なんという安らぎ、なんという美しさなのでしょう。考えるだけで、朝の空気を吸いこんだように癒されませんか?

 優れた心理学者であれば、「あなたは自身の強迫的思考に疲弊しているのだ」と言うでしょう。「現実逃避をして自身の心を守っているのだ」と。まったくもってそのとおり。そうでなければ、さっさと校正実務講座でも受けているところです。

 でも、よくないですか?調和に包まれた世界。秩序に満ちた文字の川。きっと、そのとき初めて私たちは(「たち」と言わせてください!)誤りのなくなった書物に寂しさを覚えるでしょう。昔は誤植ってもんがあったよね、あれはあれで温かみがあってさ、などと懐かしく語らうでしょう。


 現実にはすべては不可能でも、世の中を住みよくしていきたいと願うのは、人間の本能なのかもしれません。かの詩人にしたって、自分の思う「世の人々のために役立つこと」をしているわけです。私もせめて自分にできることとして、この記事を三回読みかえすことにします。そして強迫的な性分に抗えず、さらに五回読みかえしてから公開することでしょう。



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