働かざる者

 食うべからず。この上と下はセットだ。洗濯を畳みながら脳内を整理していた時に見つけた言葉。これはどこから拾ってきたんだっけ。思い返す

 幼少期、当然まだ実家にいた頃の話だ。私は小さい頃から"働く"という行為が嫌いだったように思う。当時の労働はお手伝いと呼ばれていた。私は自分の世界に没入するのが好きで、その間は自分ではない"なにものか"になれている気がして。これはゲームに限った話ではなく、おもちゃで遊んでいる時も本を読んでいる時も、集中している時は自分の世界に籠る癖があったように思う

 その、私にとって欠け替えのない時間を邪魔するものがお手伝いで、父はしばしば私にあれを手伝ってくれだのこれを手伝ってくれだの言ってきた。父についてはさんざ書いているので今日は書かないが、他の家族についても頻度に違いはあれど同じだった。たぶんどこの家庭も似たようなものだろう

 お手伝いが嫌いな理由は、いつ終わるのか分からないからだ。○○を手伝って欲しいと言われても、それが一瞬で終わるのか何時間もかかるのか分からない。それがいつ発生するのか分からないのも嫌だ。たまたま自分のしたいことを始めたタイミングでお手伝いが差し込まれると…誰だってそうだろう

 だが何よりも嫌なのは、働かざる者食うべからずという言葉だ。食うべからずと言うがその実は死ねということだ。労働をしない怠け者に生きる権利は無いと。なるほど、とても暴力的で素晴らしい言葉だと思う

 私はこの言葉を何度も投げられた。生きるために様々な活動は必要だ。よく分かる。人にはそれぞれ得手や不得手があって、それに見合った形で人やその群れに貢献すればいいとも思う。だが実際の社会はもっと画一化されている

 書いていて嫌になるよ。私は私の個性を活かすでもなく、ただ私であるということを恥じて生きる。それが私。なんでそうなったのだろう。人は人であればいいのではないか。私の考えは間違っているのか。色々なことが分からない苦痛。なぜが頭の中を駆け回る

 考えるのは熱量の無駄だろうかね。さよなら

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