ネガティブは悪か。

 ポジティブは善か。そもそもそれはなんだ

 私はへそ曲がりな人間だ。子どもの頃からよく言われていた。言われ続けたからそうなったわけではなく、元からそういう性質だったと記憶している。他の人が良いと言うものは疑ってかかるし、悪いと言うものも確かめずにはいられない。他人の言葉なんか信じない。正確には違う。私は私の気持ちが知りたいのだ。

 そんな私が、ポジティブは善・ネガティブは悪という常識に疑問を抱くのは当然だ。学校ではポジティブ教育がなされ、言葉の言い換えや思考法を刷り込まれる。生まれ持った自分を矯正されるのだ。それはなんて"ネガティブ"な考え方だろうと思う。積極的、あるいは前向きな思考や行動は常に正しいのだろうか。それは自分を傷付けないと確証を得て勧められるだろうか。私はそうは思わない。

 私が大切にしているのは肯定や否定ではなく受容だ。目の前の事象は良いとか悪いとかではなく、ただ存在している事実に過ぎない。良いとか悪いとか考えるのは各々の勝手だと思うが、そんなタグを付けても事実は変わらない。私はネガティブだ。だからなんだ。

 この、"だからなんだ"の部分に適切な回答がなされない限り私はネガティブを捨ててポジティブに移行する気にはならない。思考を捨てて、他人が刷り込んだ偽物の自分に沿って生きる気にはなれない。他人は誰しもがほとほと無責任だ。劇物の詰まった小瓶を渡して使い方は教えない。必ず一定数出てくる"間違った使い方をする子たち"を救うつもりは毛頭ない。

 私は良くも悪くも変わらず、私だ。変わらないし変われない。だから道標として機能する。私の死後、私という不変を失った彼らが道に迷わないか心配なのだ。そうならないように地図の描き方を教え、見方を教え、方角を知る術を教え、人に尋ねることを教えているがそれでも心配をするのが人情というものだろう。なんて自分に言い訳をしている。

 エンディングノートに記す。いつだって大事なのは自分の現在地。年齢とか時間とか人種とか歴史とかポジティブかネガティブかとか。そんなもの、些末なことだ。自分を見失わないように。もし見失ったら、観測すればいい。周りを。自分を。今を。

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