今こそ「パズル」の話をしよう

関ジャニ∞が好きだ。すごく好きだ。

そして関ジャニ∞が歌う歌が好きだ。




私のヲタクの始まりは、最初こそバラエティ番組であった。しかしハマればハマるほどどんどん楽曲へシフトしていった。関ジャニ∞は曲が良い。ホントに良い。


また、ヲタクの共通認識として「関ジャニ∞はカップリング曲がすごい!」というものがある。

完全に同意だ。関ジャニ∞は最高、そしてカップリングもまた最高なのである。




しかし、私は今「パズル」の話がしたい。猛烈にしたい。


結論から言えば、この曲が「聞き流そうと思えば耳障りのいい静かな曲」でありながら「しっかり歌詞を拾えば、美しく残酷な過去を優しく歌った名曲」だからである。






「パズル」は斉藤和義が作詞作曲した、アルバム「PUZZLE」の収録曲である。



歌詞の内容をまとめれば

大阪に仲間を残し上京した「ぼく」の望郷

となる。




しかしこの曲はそれだけの曲なのだろうか。それだけでこんなにも聞く人を切なくさせているのだろうか。

私は音楽に全く詳しくなく、斉藤和義さんについてもパンピーレベルにしか知識がないので、曲そのものに関しては「マジエモ過ぎ天才か??」としか言えない。

しかしちょっとばかし日本語は読めるので今回は歌詞を少し良く見ていこうと思う。




まず曲始め「ぼく」はアルバムを見て懐古していることが分かる。


眠れない夜はいつも 古いアルバムを開く 無邪気な顔で笑ってる ぼくらがいる


そしてそのアルバムの写真に載っている思い出を懐かしみながら、今「ぼく」は夢を追っていることが理解できる。


さよなら 迷いなきあの日よ       いつの日かまた会えるよね


と、その写真に写っている仲間(恋人?)との再会を誓い、一番が終わる。




……ここまで聴くとそこまで不思議な感じはしない、というか、過去があるから未来に進めるといった希望が見える歌詞である。


関ジャニ∞の他楽曲で言えば「どんなに離れてたって傍にいるから」に近い系統ではないか。

恋人を離れた街に残し『もっとお前に相応しい俺になって』迎えに行くよという、関ジャニ∞が歌うことによって「大阪↔東京」という図が聞き手に芽生える楽曲である。初期楽曲に多い、夢を叶えようと活動する彼らに重ねたストーリーの歌詞だ。


この後2番でも「東通り」「淀川」「太陽の塔」と大阪の地名が連発する。その中で「ぼく」が記念にパズルを買ったことが明かされる。

そしてこのパズルが「ぼく」の心の喪失感と重ね合わされサビへ向かう……のだが。



この楽曲が独特の哀愁を帯びている理由が、ここから先の歌詞に色濃く出るのである。


なくしてしまったひとつのピース     探しているよ 手を借してくれ


『なくしてしまったひとつのピース』というのは大阪に残してきた仲間/恋人のことのように読み取れる。

しかし「ぼく」は『手を貸してくれ』とアルバムの中の彼ら/彼女に語りかけるのである。


失われたピースが彼ら/彼女であるならば、それを探す手助けは彼ら/彼女が直接出来ることではないはずだ。それを取り戻したいのならば「ぼく」が夢を捨て、大阪に帰る以外の道が無いのである。

では何故「ぼく」は『手を貸してくれ』と懇願するのであろうか。


つまり「ぼく」は『なくしてしまったひとつのピース』が、仲間/恋人であることに気づいていないのではないか、と考える。実際「ぼく」は『探している』のであって、何かというのは明記されていない。

「ぼく」は大阪で夢見ていた己の夢が近づいているのか遠ざかっているのかすら分からないまま、眠れない幾夜を過ごしている。心の拠り所は『無邪気な顔で笑ってる』仲間/恋人なのである。

しかし「ぼく」はその拠り所すら自ら捨ててしまった。何かを喪失したことは理解している。だが、それが彼ら/彼女であることを「ぼく」は分かっていない。


さよなら 迷いなきあの日よ       いつの日かまた会いたいな        探してる 足りないピースを       ひとりじゃ とても無理だよ


「ぼく」は『迷いなきあの日』に決別している。それは現在「ぼく」が夢に迷っていることを示しているのだろう。

また、1番では『また会えるよね』だった歌詞が『また会いたいな』に変化している。きっと会えるだろうという希望的観測が、会いたいという願いになっている。

この歌詞を聴くと、先程まで「ぼく」は自分の捨てたものが理解できていないのではないかとも思っていた聞き手が、あれ?「ぼく」も心のどこかで気がついているのかもしれない、と考えるようになるだろう。夢の為に選ばなかった彼ら/彼女が自分から失われてはいけなかったピースであったことを。


『ひとりじゃとても無理だよ』に込められた想いは、実際に手元にあるお土産のパズルの1ピースの捜索ではない。

パズルのピースのように、ひとつでも欠けてはいけなかった己の心のピースが、仲間/恋人だったことを何処かで悟っている「ぼく」の叫びなのではないか。


さよなら 迷いなきあの日よ       いつの日かまた会いに行く        探してる 足りないピースを       探してる この東京で


もう『会いに行く』になってしまっている。ヤバい。言い切りである。未練がすごい。


そして歌詞は足りないピースを東京で探している、と続く。


この歌詞は様々な読みが出来るはずだ。

大阪の仲間/恋人という、東京に居るはずのない彼ら/彼女を求めて夢半ばの中もがいている、とも読めるだろうし、東京で彼ら/彼女の代わりになるような仲間/恋人を探しているとも読めるだろう。また真っ直ぐな意味としてパズルの失くしたピースを探していると取っても良い。



しかし、とにもかくにもその『ピース』は東京には存在しないのである。


ならば大阪でなら「ぼく」が懐古する『ピース』が見つかるのだろうか?

可能性は低いだろう。もし「ぼく」が夢を諦め大阪に帰ろうとも、その『ピース』は原型を留めていないはずだ。「ぼく」が上京、つまり夢を選んだ時点で彼ら/彼女との道は枝分かれしてしまっている。「ぼく」が確かに手にしていた『ピース』も、確かに存在していた『ぼくら』も大阪も、もう何処にもありはしないのである。




そしてこの曲は"ほんの一部"を除き、曲始めの歌詞がリフレインして終了する。


眠れない夜はいつも 古いアルバムを開く 無邪気な顔で笑ってる みんながいる


お分かりだろうか。

歌詞の『ぼくら』が『みんな』に変わっている。つまり意識的か無意識的かは定かではないものの、「ぼく」が仲間/恋人を『みんな』と呼び、自身から分離させた歌詞になっているのだ。


選んだ夢も前進しているのか後退しているのか分からない中、ホームであった大阪の仲間/恋人も今は思い出の中にしか居ない。孤立しながらも夢を信じるしかない「ぼく」は彼ら/彼女に電話を掛けることもメールを打つこともなく、ただ独り『古いアルバムを開』いている。



このようにこの曲は、かつて慣れ親しんだ故郷や土地を離れ暮らす全ての人に、大なり小なり芽生える心の痛みを、優しい言葉と美しいメロディーで表現している。


私はいつも言い表すことのできない切なさを感じる。それは己に重ねて、という心情でもあるし、歌い手である関ジャニ∞を楽曲の中に見ることが出来るからでもある。


提供楽曲と言えばやはり「ジャム」が思い浮かぶが、関ジャニ∞にはこのようにこの他にも素晴らしい提供曲が沢山ある。

それらは提供してくださったアーティストの方々が歌う時とはまた違う表現となり、我々を楽しませたり切なくさせたりする。

そのような意味でこの「パズル」は名曲でありながら更なる深みを増しているのではないだろうか。





おまけ

常々Twitterで言っている、私が関ジャニ∞の歌うジャンルとして最も愛している「なんでそんな女が好きなんだよやめとけ楽曲」についてもいつか書きます。(例・イッツマイソウル、WASABI、クルマジ…)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?