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”目に見えないモヤっとしたなにか”を不思議に思う


先日「デザインはすべてセンスで決まる」と仰る方に会う機会がありました。

極端な言い方かもしれませんが、けれどそう言えるのもわかります。

センスというものは、個人的に最もしっくりとくる表現を借りれば、細かいところに気づく(違和感を感じとる)能力です。
このちょっとした違和感の有無がデザインの良し悪しを左右します。
どのぐらい左右するかと言えば、「神は細部に宿る」なんていう言葉があることからみて相当ものだと想像できます。
センスによって神が宿るかどうか決まるわけですから、確かに「すべてセンスで決まる」と言えますよね。
(この辺の細かい話はまた別の機会に触れようかと思います)


このように解釈して話を聞いていたわけですが、話をすればするほど私の中で違和感が膨らんでいくんです。
ひょっとして、そういう具体的な話しではなく、もっと前の、絵的な表現をする人のなかにある”目に見えないモヤッとしたなにか”を指して「センス」と呼んでいるのではないか、と。

相手が考えなしだとか、頭が悪いとか言うつもりはないのです。
そもそも私とその方とでは、その言葉の指すものがどこまで自分の人生に影響を及ぼすのかという重要度も違うのですから、解釈の深さや粒度、見る角度や範囲など違っていて当たり前なんですよ。
そういう当たり前を失念し、相手も同じ解釈をしていると思い込んで話しを進めていた自分に、このときはたまたま気付くことができましたというだけのお話です。

結局その方が「センス」という言葉をどのように解釈しているのかはわかりませんでした。今後お会いする機会に、少しずつでも見極めていこうと思います。


話は変わりますが、私は職業柄プログラムを扱っておりまして、そこではよく「抽象」という言葉が使われます。
この「抽象」という言葉も理解の度合いによっては、やはり”目に見えないモヤッとしたなにか”と解釈されます。

サンプルは私自身でして、理解が進む前までの私は
(1)具体的ではないから理解できないときに「抽象的すぎてわからない」と言う
(2)「具体的ではない」とは「漠然としている」ことだと解釈した
この2点が揃った結果、「抽象」はモヤッとしたなにかだと解釈していました。


さて、ここまでの話に登場した「センス」と「抽象」という言葉。
本来それらは全く異なるものを指す言葉であるのに、両方ともに”目に見えないモヤっとしたなにか”を指しています。
そして、それついて考え理解度を深めようとするほど違いが見えてきて、どこかの段階から明確に違うものだと言い切れるようになるというところも同じです。

そこから類推するに、人間というものはまず最初にすべてを”モヤっとしたなにか”として漠然に捉えており、生きていくうえで触れる機会の多い物事ほどそれについて考える機会も多くなり、結果的に理解が深まっていく仕組みなのだと考える。
(ニューロンやシナプス、AIの学習などについて調べたとき、このモデルに当てはめて理解してました)

触れる機会が多いということはそれだけ社会的に重要なことなので、恐らく社会性なんてものも身についていくでしょう。
だから、理解を深める機会が少ない子供のうちは意味の違いに気づけず、それだけ言葉のチョイスを誤る機会が多くなり、結果的に大人から叱られる機会が増えるのかもしれません。
(学習機会の獲得や、教師あり・なし学習など)

けれど普段の生活で使わない言葉というものはそうはいきません。
ずっと理解が深まらないままです。

わざわざ「センス」や「抽象」というようにユニークな文字が割り当てられ言葉として存在を許されたのに、「モヤッとしたなにか」という意味の同義語として扱われてしまうのは勿体ないなぁと、心からそう思いました。

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