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小さな自分と大きな自分

いつも小さな自分のマインドにあるのは、目先の稼ぎ。
大きな自分のオープンなマインドにあるのは、永遠の存在感・ワンネス。
両方が自分の意識の中で混在している。というか、大きな自分でいつもいれたらと思いつつも、小さな自分がノイズとして現れる。これはチャンスでもある。

「今、命があなたを生きている。」名言なり。
今、命:大きな自分が、小さな自分を生き、小さな自分が現象として起こっている。起こり続けている。

さて、小さな自分からスタートするのが、通常のマズローの自己実現の印象(本当は違うのかも)。
大きな自分からスタートするのが、逆マズローの自己実現
ワクワクするのは当然、逆マズロー。自分的には。

小さな自分から始めれば、当然、~が無い。~が足りない。という欠乏からスタートする。そしてこれは過去と、結果としての今を減点的に評価する。
ここからは、あるべき自分ー今の自分のギャップを埋めようという行動が発生するが、実はこれは埋まらない。達成すると同時にゴールは延長されてしまうから。これは罠である。トラウマとも言う。ここからは恨みつらみややっかみが出てきやすい。往々にして行動でなく、存在に対して自己否定してしまう。

逆に、大きな自分から始めれば、本来(大いなる)自分は満たされており、または移り変わりつつも満ちており、欠乏は無い。喜びと感謝はある。そこからは、創造だったり、突き動かされるものだったり、恩返しだったり、使命的なものが出てくる。その上で、できたできなかったはあるが、それは行動に対してであって、存在に対してではない。存在は常に常に肯定しかない。

大きな自分であるコツはオープンさ

・オープンマインド
考え方をオープンにする。
例えば、
身体を作っている細胞は原子レベルで入れ替わり続けている。体は食べたものから形作られている。さらにそれは農家さんだったり漁師さんがとってきて、加工屋さんが加工して、物流で届けられ、お店で買い、配達されたりもしたもの。ここでは、体は肉体以上に拡張された社会的な関係としての社会身体かもしれない。さらにその過程で様々なエネルギーも使ったり、人間の労働だったり、マネーシステムが血流のようだったり、さまざまな命の参加・交流の中で培われたものであって、それもまた「私」と見ることもできる。また時間的にも、父母の先祖のまた先祖とどんどん遡っていくなら、無限とも言える可能性の中に私がたまたま生まれいでているという奇跡、命の網の中の奇跡だったりすることに、感謝しかなかったり。もっとさかのぼれば宇宙最初の電子とかが今も体にあったりとか。「私」はこの体だけじゃない大きな私でもある。と頭脳でわかること。世界そのものが私の鏡かもしれない。何一つ、自分事でないものはないかもしれない。何一つ他人事ではないかもしれない。

・オープンハート
頭脳で知るだけじゃなくて、想像してみること。
もし、自分が気候変動で損害を被る農家だったら、牛だったら、稲だったら、途上国の先住民だったら、雑草だったら、性的趣味が特殊だったら、差別されてるあの国の人だったら、、、クジラだったら、森だったら、海だったら、地球だったら、、、。実は何にでもなれる。視点そのものが「私」かも。

目を瞑り、瞑想してみる。足から根が生えて地球に根付き、丹田と地球の中心がつながり、頭長から光が太陽へ宇宙へ伸びて無限に広がり、同時に頭長へ流れ込んでも来て、ハートで一つになる。暖かいものが流れる。私たちはひとつであるという感覚が湧き出てきたりする。感謝と歓び、愛しかない。

・オープンな意志・行動
私たちは一つだという意識のもとで、生きる。
そうしようとしたとき、様々な葛藤が現れてくる。これこそ気づきであり、自覚であり、チャンスである。ギフトである。その声を聴き、抱きしめ、感じ、解放する(手放す)がよいだろう。私の変容は世界の変容でもある。

話を戻すと、大きな自分に自分のセンターを置き、小さな自分というノイズはギフトとして受け取って感謝し手放していく。その方が、人生は実りあるだろう。ノイズにセンターを置くなら、小さな自分はただただトラウマのTODOをこなすだけで一生が終わってしまうだろう。何をしに生まれてきたのか、もう一度自分に問いかけてみること。ワクワクするのはどっちだろう。

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パチンコ玉の私は、パチンコ玉という質量をもった物体が私だと思っているが、表面に映るすべてもまた実は私でもある。さらにそんなお互いが映りあうのも私たちであり、しかし結局は「空=全」でもある。

参考:U理論 オットーシャーマー ほか



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